「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

七十五、日本人は日本人らしく

 前回は宗教団体という世間について少し書きました。あれだけの記述では、わたしの心のうちにあることを、全て吐露したものだとは言えないでしょうが、別に何もかもをすぐにぶちまけてしまわないといけないわけでもないのですから、あの記述については、打ち切りにします。

 世間というものにはいいところもあり、悪いところもあります。しかしそれは世間に限らないことでしょう。欧米式の社会にだって、いいところもあれば、悪いところもあるのでしょう。

 社会というものを、全面的にいいものだと思い込み、世間のことを全面的に悪いものだと思い込んだところに、明治以来の日本という国の中の人々の、心の中のひずみが生じた原因があると、わたしは考えます。

 教育からすっかり除外されて、迫害されていたにもかかわらず、日本には今も厳として世間というものが存在しています。いえいえ、存在するどころか、日本の国の中で支配的なのは、明らかに世間なのです。社会というものは、言葉は頻繁に聞きますが、実体としては希薄なものでしかないのです。

 前にも書きましたが、日本人には、「和をもっと尊しとなす」という美徳があります。これは本当の意味で美徳ではないでしょうか。

 日本人の和なんか、ただのなれあいに過ぎひん。ただの仲良しクラブで、仕事もちゃんと進んでへん。ほんで責任を追及されたら、誰が責任者か分からん。

 そういう曖昧さに接して、欧米人は困惑し、日本人そのものも自分たちを恥じる傾向があります。もっと欧米風に物事をはっきりしないと、これからのグローバル社会を渡ってはいけないんじゃないかと反省するわけです。

 いえいえ、渡っていけるのです。日本人は、日本人らしく物事を処していけばいいのです。欧米人のやり方に、何もかも迎合する必要はないのです。そんなものに迎合しようとするから、問題が余計にややこしくなるのです。

 憲法を改正しようという意見はありますが、今のところ日本には世界でも稀有な平和憲法が存在します。これは誇りにすべきものであって、恥じるものではありません。

 平和を守るためには、二枚舌も平気で使う。それが外交の醍醐味やないでしょうか。

 戦争をするぞと脅すのは、全く知恵のない人でも言えることです。したかったらすればいいのですが、それならしたいと言った指導者本人が機関銃を持って、一人で敵地に突っ込んで行ってもらいたいものです。

 日本のように、外国に不満を述べることはあるが、戦争を仕掛けるわけではない。それどころか裏から手を回して相手国の指導者を懐柔する。

 やっていることを見たら、腰抜けの卑怯者だと言う人もいますが、わたしにすれば、戦争するぞと脅して実際に攻撃をしかけながら、指導者自らはのんびり執務室でステーキなどを食べて寛いでるなんていう方が、腰抜けで卑怯なのではないでしょうか。

 これからの世界は、みんな、「和をもっと尊しとなす」でいかないといけないのです。二枚舌でも三枚舌でも使って、世界の平和を守り合う、時々不満をぶつけ合うけれど、陰で握手をし合う。そういう曖昧な外交をすればいいのではないでしょうか。

 何しろもし大国どうしが全面戦争にでもなったら、もう世界は滅亡してしまうのですから。そんなことが楽しいと言う人は、少しくらいいるかと思いますが、そんなにはいないでしょう。

「和をもって尊しとなす」の二枚舌外交は、日本の得意技です。これは日本が古来から持っている世間というものの主要なやり方なのです。

 人権などを考えれば個人や社会という概念は必要なのですが、みんなの和という点では、日本の世間というのは、とても役に立つ仕組みだとわたしは思うのですが、どうでしょう?