「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

七十四、宗教団体という世間

 ここでわたしは、最初にわたしが関わることになった、宗教団体という世間について、少し話したいと思います。

 宗教は今や、日本だけではなく、世界中の政治を決定づけるほどの力を持っています。だからここで軽々に論じて、宗教否定などをするわけにはいきません。

 ただ、わたしは、わたしの体験として宗教について語ります。

 世間の中にある些細な上下関係に対する批判はたくさんしましたが、それ以外の世間の特色については、全く語ってはいませんでした。世間の詳しい特色については、世間学の先生方が書かれたたくさんの著作の中にありますので、そちらを参照して下さい。

 わたしはとにかく最後に宗教団体という世間について、少し語りたいのです。

 わたしは赤ん坊の頃からある宗教団体に所属していることになっていたので、成長するに従って、わたしのまわりには、その宗教団体の人々が何人も絡み着くことになったのです。

 子供の頃の思い出の人たちには、その宗教団体の人たちが多かったのです。わたしは子供の頃からその宗教団体の世間の中で生きていたのです。

 だけど長ずるに従って、わたしはその宗教団体に対する嫌悪が自分の中にあることに気付きました。

 日本には信教の自由があると、その宗教団体の人たちはよくがなり立てます。だからこの宗教をしていることに対して、偏見の目で見ないで欲しいと訴えるのです。

 しかし信教の自由があるのなら、同じその宗教を嫌悪する権利もあるということじゃないでしょうか。

 しかしそれは、子供の頃から住んでいる共同体にいる限り、認められないのです。

「まあ、ただし君は、今は、色んなこと言うてるけど、いずれこの宗教の素晴らしさが分かって、いつかはわたしたちを引っ張ってくれる闘士になるはずや」

 宗教を信じるだけあって、個々の人たちはみんないい人たちなのです。だからわたしは困ったのです。わたしはこの人たちに色々お世話になったんやから、嫌いでもこの宗教という世間に入って、人生頑張っていかなあかんのかなあと思ったりもしました。

 しかしそんな鬱屈が次第にわたしの中で重大なものになり、ついには精神病院に放り込まれるくらいの精神の病になってしまったのです。

 大学の友達なんかは、わたしに、早く親元を離れて自立しろというアドバイスを受けたものですが、なんせ職業が定まらなかったので、経済的な自立が確立できず、一人暮らしなどはできなかった。

 親元で暮らすんやったら、親がやってる宗教に従わなあかんとちゃうのん? それが世間の常識です。

 親元にいて、親に住居や食事などの世話をしてもらっているのだから、そんなわたしに個人の自由や権利などというものはありません。

 結局はわたしは発狂してしまったのですが、それと同時に、わたしがこの宗教のことをいかに嫌っているか、身に染みて分かったのです。

 お世話になっているとかどうとかは関係ない。宗教団体という世間は、他の世間とはちゃうねん。嫌悪してる宗教にいつまでもしがみついてたら、こうやって頭おかしなんねんから、いややと思うたら、とっととやめんといかん。

 親を裏切ってもしゃあない。お世話になった人たちに後足で砂をかけてもしゃあない。嫌いで嫌いで仕方あれへん宗教に対しては、大きな声で「嫌い!」と意志表示をせなあかん。

 宗教という世間は特殊なのです。