「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

七十三、健全な世間が日本を健全にする

 わたしなどのような、精神病になった低級な者がこんなことを訴えたところで、誰も納得はしてくれないでしょうが、ここまで七十数回にもわたって、世間について論じてきました。

 わたしはわたしなりに懸命に書き続けました。このまま世間というものを曖昧なままで放置しておいてはいけないという、危機感がわたしにはあるのです。

 世間というものを表沙汰にして、学者の方々がもっと活発に論じることによって、世間の風通しがよくなっていくうちに、いつしかそれは健全なものになるのです。

 そして、世間は健全でなければならないのです。不健全になった世間ほど恐ろしいものはないからです。

 日本人のあのはっきりしないものの言い方というものが、そんなに悪いものなのでしょうか? 世間には、あんまりはっきり言うと『角が立つ』という言葉があります。あらかじめ無用な争いを避けようという仕組みが、世間というところにはあるのです。

 無用な争いがなく、一生を恙なく生きていき、自分のするべき仕事に邁進する生活は、いいものじゃないですか。

 競争などもなるべくないように、日本の世間はしているのです。たとえあまり有能に生まれついていなくても、世間に対して頭を掻いて、「いやあ、おれ、こんなに無能やけど、仲間に入れといてな」と笑顔を見せることによって、世間はその人を温かく胸の中に抱くのです。

 そういう世間は、近代化された明治以降にも、日本には頑として存在したのです。そしてその世間が日本の近代化にも手を貸し、驚異的な高度経済成長を支えてもいたのです。決して世間がなくなったから、日本は発展したというわけではないのです。

 しかし明治以来、日本人は日本人式の世間を、悪しきものとして放逐しようとしていました。学校では、欧米式の個人と社会のことばかり教えて、世間のせの字も口に出さなかったのです。

 そうか、もう日本には世間はないんや、そやから、大人になったら、欧米人のように自由にはっきりとものを言うようになったらええんやと喜び勇んで会社などに入ってみると、そこで驚くのです。

 大人の世界には、個人や社会など、どこを探してもないのです。自由にはっきりとものを言うどころか、愚痴一つ口にするだけでも、気をつけないといけません。

 世間というところは、元々、その中の成員の人たちを守るために形成されたものなのです。なのに今世の中で問題になっている多くの事柄を見てみると、世間が人を潰しているという場合も、多々あるのです。

 世間をそういう悪いものにしてしまったのは、やはり何と言っても、明治以来世間というものを隠蔽して放逐しようとする動きがあったからなのです。近代化のためには個人や社会は必要だが、世間は必要のないものだと、勝手に決めつけてしまったからなのです。

 そんな風に押し込められた世間が、あの忌まわしい戦争の時に、ドカンと爆発して表に出過ぎて、日本という国全体が一つの巨大な世間となって、無謀な行為をしてしまったのです。

 是非ともそんなことにならないためにも、日本人は、なるべく早いうちに、世間というものをもっと大っぴらに論じるようにならないといけないのです。世間のいいところ、世間の悪いところ、そういうものをもっと研究、整理をして、世間を健全なものにする努力をするべきなのです。