「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

七十二、世間を前面に押し出さないと、また戦争になる

 是非とも日本の世間というものを、もっと前面に押し出さないといけないのです。少なくとも、日本は欧米とは違って、世間というものが中心になって機能している国だということを、まずインテリ層から認めるようにしていって、そして次第に国民全体に浸透させないといけないとわたしは考えます。

 そのためには、教育の場でも、もっと世間のことを教えないといけないのです。

 学校の先生が教室で、日本には欧米式の個人と社会が根付いているというようなタテマエを、いつまでも子供たちに教えていてはいけないのです。

 欧米式にならないとみっともないという見栄から、日本に元からあった世間を封じ込めるような教育をしていたのです。そのため日陰者になった世間という体制に、陰湿な要素が宿ることになったのです。

 外国人から見たら失笑を買うような、あの忌まわしい先輩後輩の上下関係や、今問題になっているいじめなんかもその影響から生じたものです。

『世間体を気にする』などというように、今は世間というものを悪く見る傾向が定着しているようです。特にインテリの人たちは、世間という言葉を聞くだけでも、いやな顔をする傾向があります。

 しかしそんなインテリの人たちも、仕事を終えて家に帰ると、明らかに世間の風習に従って生きているのです。インテリの人たちどうしの付き合いや人間関係も、やはり、世間のやり方で行われているのです。

 自分たちは欧米流にやっているつもりでいても、普段やっていることは、やはり完全に世間流なのです。

 日本という国から世間を抜き去るどころか、日本には世間というものが、中心に頑として居座っているのです。欧米式の個人と社会の方こそ抜き取られかねない勢いです。

 歴史上そのようなことが一度ありました。

 あの忌まわしい太平洋戦争の時、日本は完全に日本全体という世間そのものになってしまったのです。欧米式の個人も社会も、きれいさっぱり消し飛んでしまい、『鬼畜米英』のスローガンとともに、敵視さえされるようになったのです。

 ああいうことになったのも、明治以来、世間の存在を無理に封じ込めて、西洋式の個人と社会で国中を覆い尽くそうと焦ったことによる反動が、極めて強く起こったからなのです。

 今、太平洋戦争前夜のような、悪しき世間があちらこちらで勃興しているように感じます。そのような悪しき世間がまた日本中を覆い尽くさないためにも、日本人はできるだけ早く、世間というものの存在に注目すべきなのです。

 インテリの人たちがどんなに奮闘努力しても、日本から世間というものを消し去ることは不可能なのです。逆にそんな無駄な努力が、日本に悪しき世間を生じさせる元になるのです。

 太平洋戦争の時のような、あの忌まわしい世間を復活させてはいけません。世間というものを、もっと健康的で風通しのいいものにしていかないといけません。

 もちろん、欧米式の個人と社会という概念も大事なものです。それなくしては、人間個々の人権なども守れないのですから。

 それと同時に世間をもっと表沙汰にすることが、日本人の喫緊の課題であるとわたしは考えます。そうしないと、悪しき上下関係やいじめなどが、もっともっと日本中に蔓延するような気がしてなりません。

 特に日本の頭脳を司るインテリの人たちが、世間の存在を普通のものとして認めることから始めないといけません。そういう人たちが、日本の文化を牽引しているのですから。