「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

六十一、日本に社会が根付いているという勘違い

 これからの日本は、世間というものを悪しき遺習として排除する方向に行くのではなく、逆に世間の特質を取り入れることをした方がいいというのが、わたしの素人考えです。

 江戸時代までの日本は、世間という存在に疑問を感じることなく、うまく人間関係を行ってきたように思うのです。

 そこへ明治になって、西洋の個人と社会という概念を無理やり輸入したわけです。

 何しろ西洋というのは、世界一の文化圏であり、その上軍事的には脅威でもありました。どうしても西洋に、追いつけ追い越せという勢いで、日本を西洋化しないと、日本は西洋諸国によって植民地化されるという恐怖があったのです。

 日本を西洋並に強い国にするには、西洋式の個人と社会をしっかり根付かせないといけないと焦ったのですね。

 前にも書いたように、日本人というのは、自己主張することが苦手で、まわりの様子を見て自分の考え方や行動を決めるというのが、普通の習慣になっています。

 しかし西洋人は全く違います。

 個人というものがしっかり確立されていますから、日本人には考えられないくらい積極的なのです。自己主張しないんなら、生きててもしゃあないやん、くらいの勢いがあります。

 そういう考え方を日本人は取り入れて、日本人はもっと積極的にならないといけないと、政府までもが焚きつけたのですが、明治維新から百五十年以上たった今でも、その無理による弊害が日本人を苦しめているような気がします。

 江戸時代までの日本には、はっきりとした身分制がありました。そういう身分制を撤廃したという点では、西洋の考え方を日本に流入させたというのは、よかったことでしょう。

 しかしみなさんもご承知のように、昔からある身分制は、今もなくなってはいません。西洋式の考え方が入ってきて、身分制はなくったというのは単なるタテマエで、ホンネの部分では、身分制は頑として存在しています。

 身分制と書くとよく分かりませんね。簡単に言うと、差別です。

 昔の世間には、はっきりとした差別がありました。世間というものの重要な特質に、上下関係というものがあるのですから、差別があるのは当然のことです。

 差別が当然などというのは、人権意識からすれば由々しきことですから、日本は西洋式の差別のない合理的な社会というものを輸入したわけです。

 西洋的社会の中では、個人の権利がはっきりしている。日本にこのような素晴らしい思想を流入させれば、きっと昔からのいやらしい差別はなくなるだろうと、政府は簡単に考えたわけです。

 しかしそのように西洋を理想的なものに見せた社会というものは、未だに日本には根付いていません。日本を実質的に動かしているのは、やはり世間なのです。

 社会の力によってではなく、世間の力によって、あの驚異的な高度経済成長を成し遂げたと、阿部謹也さんも言っておられます。

 しかし日本のインテリ層は、昔から今に至るまで、日本にはもう既に西洋的社会は根付いていると勘違いしているところがあります。日本という国がもう一つうまく行かないのは、まだこれからもっと社会が発展しなければならない。そしていつか欧米のような国になると確信しておられる節があるのです。

 ところが日本では社会などというものは、ほとんど発展していないのです。社会というのは単にタテマエとしてあるだけで、その実日本を実質的に動かしているのは、世間なのです。日本人のホンネとして、世間はしっかり存在しているのです。