「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

三十五、日本には世間がしっかりあるということを認めるべき

 阿部謹也さんも、世間には悪いところもあるが、だからと言って絶滅すべきだとは言っておられません。悪いところもあるけれど、いいところもあるのです。

「和をもって尊しとなす」という日本古来からある美徳を実行するためには、世間というのは、とても力を与えています。世間の成員が、本当に一体になったかのような、理想的な和を達成することができます。

 あの驚異的な高度経済成長を成し遂げたのは、世間というものの支えがあったからのことです。

 それに日本には欧米のようなしっかりとした個人はありませんし、社会というものもちゃんと形成されてはいません。だから欧米式にこれからの日本を進めていこうというのは、無理な話なのです。持ち駒がないのに、持ち駒を使おうと焦るようなものです。

 ただ、これまでのような世間では、何かと差し支えがあるので、改良はしなくてはならないと、阿部謹也さんは仰っていました。しかしそれがどのような改良なのか、今のところまだはっきりと分かってはいません。

 わたしは最下層にいて、差別される方の人間ですから、偉そうなことは言えませんが、少なくとも差別というものがなくなるようなシステムにしなければならないのは確かでしょう。差別と関連したものとして、いじめもなくさないといけないでしょう。

 それに、阿部謹也さんがあちらこちらで書いておられますが、人間の幸せというものを一番大事なこととして考えないといけません。

 もう一度あのバブル景気のような派手な成長が起こって、日本がGDPで再び世界一になる、そのようなことが大事なのではないのです。これからは人が一人一人自分の幸せというものを考えて、それを達成するために努力する、そういうことが大事なのです。

 ただ、この幸せという言葉も、解釈の仕方によっては、色々な意味があります。ただ単に金が山のようにあって、高級車を乗り回すことが幸せだと思う人も多いでしょう。もちろん、世間学では、そういう幸せは取り扱ってはおりません。大事なのは、もっと精神的なものなのです。

 わたしは精神的なものを追い求め過ぎて、ついには精神病院に入る羽目になってしまったのですから、精神的な幸せを追い求めるのも、ある程度にしないといけません。

 高級車は必要はないけれど、毎日の生活費は必要ですからね。それを得るために、ある程度は現実を見ていかないといけないわけです。

 要するに大事なのはバランスなのです。世間も、差別やいじめがあちらこちらで横行するようになったら、弊害が多いのです。だからといって、世間というものを全く消し去ったら、日本人は日本人らしくなくなります。

 そのためには、日本人の全ての人が、日本人は世間というものを形作って生きているということを、しっかり自覚することから始めないといけません。

 わたしたちのような下層にいる人間は、比較的たやすく世間というものの存在を認めるのですが、どうも上層にいらっしゃるインテリの方々は、世間というものの存在を示されると、不快を感じるらしいのです。

 インテリの方々にしてみれば、世間というのは、既に日本から消え去った遺風であって、日本人はすっかり欧米の個人になっていて、ちゃんと社会を形成していると、はっきり思い込んでいらっしゃるようなのです。

 だから日本では今もまだ世間が主流なのだと言われると(阿部謹也さんのような偉い方に言われても)、至極不快な顔をされるそうなのです。