「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

二十八、世間の上下関係

 デイケアに通い始めて三年くらいは、さほど馴染んでいるとはいえなかったのです。それに、正直言って、こんなところに馴染んでも仕方がないと思っていました。

 ところが四年目か五年目の頃、わたしの住んでいる家の玄関にスプレーペンキを大量に吹きかけられるという事件が起きました。

 下手人は以前親しくしていた精神障がい者の一人です。

 その事件について細々とは書きません。とにかくわたしはその時はっきりと心に誓ったのです。これからは出会う人、出会う人を、一人一人はっきりと分け隔てして生きて行こうと。こんな目にあうくらいやったら、差別主義者と非難された方が数倍ましだと。

 これも阿部謹也さんが仰っていたのですが、小学校あたりの先生方というのは、タテマエのきれいごとばかり言います。

 日本という国は個人というものを大事にする国になったから、しっかりとした人権がある。だから決して人を差別してはいけないとか何とか。

 わたしは小学校の時の先生を尊敬していたので、それからの人生は、人を差別しない生き方をしようと努めてきました。なるべくいつも朗らかにして、人には優しい言葉をかけていこうと。

 ところが阿部謹也さんの言葉によると、日本には個人も社会もちゃんとできてはいないとのことでした。だから人権というのも、タテマエがあるばかりで、全く実質をともなったものではないのです。

 日本には貧弱な社会しかなく、確固とした世間がドンと控えているのです。

 世間は、世間全体の和が大事であって、その構成員一人一人の権利というのは、あってなきが如きものなのです。だから世間というところに入って、全く分け隔てなく平等に人に接しようとしても、それは世間というところには合わない態度なのです。

 世間にはしっかりした上下関係があり、応分の場と呼ばれるべきものがあります。その中にいる人は、みんな、自分の場というものを見つけて、そこで自分の務めを一生懸命果たす、それが世間というところなのです。

 要するに世間の内部は、決して平等なところではないのです。自分より上の人にはへいこらするが、自分より下の者には、それなりの礼儀を要求する。そういう場なのです。

 現代の世の中に、そんな旧式の上下関係なんて、時代遅れやと言う人がいると思いますが、そんな人も自分のまわりを見回して下さい。誰のまわりにも世間があり、その世間の中では、しっかりとして上下関係があるということに、すぐに気づくはずです。

 日本の学校で盛んに行われているクラブ活動というのを見ても、それがよく分かります。

 わたしは中学に入った時に、バスケットボール部に所属したのですが、一年生のわたしたちを指導したのは、主に二年生の人たちでした。

 もちろんチームを強くしないといけないのですから、練習には励まないといけません。一年生というのは、何も知らずに入って来た連中だから、ある程度は厳しく対しなくてはならないでしょう。

 わたしは一年生の秋くらいまでそのクラブに所属していたのですが、二年生の指導というのは、全くもって、ただのいじめとしか思えないものばかりでした。

 その当時はわたしもまだ子供だったから分かりませんでしたが、六十三歳になる今になって、痛切に分かります。中学一年生も二年生も、よそから見たらおんなじ中学生やんか。一年年が違うだけで、先輩、後輩やなんて、ただの冗談にしか思われへん。はっきり言ってみんな同輩やんか。