「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

四十三、わたしの妻は賢いのかあほなのか?

 妻はとても愛嬌のあるいい性格の持ち主なのですが、幻聴や妄想にまだ色濃く支配されていて、人とちゃんとした意思疎通を取ることができません。

 わたしは家でいつも一緒にいるのですから、ゆっくり話を聞くことができます。ゆっくりと落ち着いた気持ちでしゃべれば、彼女の言うことは、なかなかの卓見だと分かるのです。

 しかし世の人たちには、彼女とゆっくり何時間もしゃべっている暇はありません。時間があったとしても、そういう人たちは、自分のしゃべりたいことに夢中になっていて、妻の話は上の空で聞く程度でしょう。

 そういう投げやりな聞き方をすると、妻のしゃべっていることは、何を言っているのかよく分からないのです。それでその相手は妻のことを、「あっ、この人、あほや」と決めつけてしまうのです。

 しかしわたしはよく知っています。妻は決してあほなんかやないということを。

 さほどの数の経験も積んでいないわたしですが、六十三年も生きていると、それなりの数の人と出会います。まずまずの数の人と会話を交わし、この人はこういう人、あの人はああいう人という具合に、色々な人たちを種別してきました。

 わたしが上流階級のようなところに出入りしたことがないせいかも知れませんが、これまで会ったたくさんの人たちの中で、わたしの妻がピカ一に賢いと思えるのです。

 賢いのです。頭がいいわけではありません。学校で習う知識の習得という点では、彼女は明らかに劣っています。そういうことだけを賢さの基準にするならば、彼女は確かにあほです。

 しかし賢さって、果たして頭の中にある知識の数だけで判断できるものでしょうか?

 オーストラリアの世界遺産になっている岩の名前を正確に言えたからといって、それでその人は賢いのでしょうか? それはただ記憶しているというだけのことで、記憶って、ただの記憶に過ぎません。何の応用にも使えませんし、そこから何か偉大な思想が生まれるということは、絶対にありません。

 頭の賢さというのは、決して記憶の能力のことではありません。わたしは生まれつき記憶の能力に優れていて、それである程度有名な大学に入ることもできました。そのわたしが言うのです。記憶の能力は、あって邪魔になるものではありませんが、人間の脳の中で一番使わんとあかんのは、自分の力でものを考える能力です。

 そうです。そこでやっと世間の話が出てくるのです。

 世間というところでは、自分の力でものを考えるということを、あまり重視していません。むしろそういう能力は嫌われるといっていいでしょう。

 世間の中では、上の人が言ったことを、そのまま記憶してそのまま実行することが求められます。

「なんで、そんなこと、せんとあかんのですか?」などと、その行為の意味を問うことは、ご法度とされることが多いのです。

 妻はもちろん子供の頃から学校という世間にいました。学校の先生たちは、生徒たちにたくさんの知識を記憶させようとします。先生たちの望むように、素直に記憶することに励む生徒には、先生はいい顔をしますが、妻のように、その知識がなんでそんな風になってるんか、その理由が分からんと、記憶なんかでけへんという性質の人に対しては、厳しい目を向けます。

「よけいなこと考えんと、とっとと憶えろ」というわけなのです。

 しかし妻は、心の中で腑に落ちないことは、どうしても憶えられなかったのです。