「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

三十、世間の主観的な上下関係

 西欧の人間関係にも上下関係はあります。日本の世間とは様子が違うらしいのですが、あることはあります。同様に日本の世間にもしっかりした上下関係があります。

 西欧ではその上下関係がしっかり固定されているのでしょう。誰から見てもはっきり分かる上下関係がある。表にして貼りだそうと思えばはっきり可視化されるというものなのです。

 しかし日本の世間の上下関係というのは、ある程度は書けるけれど、ある程度以上を超えると曖昧になって、書き表せられない。第一に、一人一人の人によって、上下関係が異なったりするのです。

 上下関係だけではなく、優先順位という言葉もあります。

 西欧ではどうか知りませんけれど、日本の世間では、この優先順位というものも大事なのです。Aさんから見ればBさんはさほど大事な人ではないけれど、Cさんから見れば優先順位第一位といっていいほど大事な人だ。その場合Bさんの位置は客観的に見ればどこにあるのか分かりません。しかしAさんはAさんで正しく、CさんはCさんで正しいのです。

 そういう曖昧な関係が網の目のように広がって集まっているところが、世間というところなのです。

 先輩後輩という決まった上下関係があるとしても、中には、先輩やけどこの人は尊敬でけへんなあと思うような人には、軽蔑の視線を投げたりする。そのような純主観的なものが世間というところにはあるのです。

 わたしがデイケアで発揮したものは、明らかにそのような純主観的態度です。誰が誰より年上だとか、誰が誰より賢いとか、そんなことは関係ない。とにかくこの人は感じがええなあと思ったら大事にする。この人は感じが悪いなあと思ったらないがしろにする。それだけだったのです。

 もちろん年上の人やスタッフの人たちには敬語を使ってしゃべりますが、その敬語の使い方にも、微妙な段階があるのです。

 そのようにメリハリのある対人関係をしていくことが、世間というところでは求められます。しかしそれは世間の中に入れば、さほど難しいことではないのです。何となく分かるという主観的感覚に素直に従えばいいのです。

 問題は、世間の中に入り切れない人のことです。いったん入ってもどうしても浮き上がってしまう人というのもいます。

 わたしは、精神障がい者の一人に家の玄関にスプレーペンキを塗られるという被害にあいましたので、それからは精神障がい者だからといって、仲間と思ってたまるかという、極めて差別的な態度を取ってきました。しかしわたしたちのように、精神障がい者という立場に立つと、他の世間では逆に差別される立場に立つわけです。

 はっきり言って、わたしがどのように偉そうに人を助けようとしたところで、わたしたちが日本という国の中では、最下位という位置についているのは確かなことなのです。最下位の人たちがニコニコ笑って人に優しくしようとしてばかりいると、やっぱりお前あほやなあとばかりに、ひどい差別を受けるだけです。

 阿部謹也さんは、そういう日本の世間というものが、いつまでも執拗に続く部落差別のようなものに力を貸していると仰られました。そして同時に、世間はそういう意味では悪いところだが、だからといって、日本から世間というものを取り去るわけにはいかない。何しろ日本には西欧的な個人も西欧的な社会も存在しないのですから。

 それならばどうすればいいのか。阿部謹也さんは、世間の改良ということを仰られていたように思います。さて、どのように改良すればいいのでしょうか?