「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

三十二、インテリの人たちは勘違いしている

 阿部謹也さんは、特に日本のインテリの人たちには、世間に住んでいるという自覚がないと言っておられました。

 幼い頃より欧米型の教育を受けて、海外に留学までもして、自分はフランス人やドイツ人などと変わらない、ちゃんとした欧米型の個人を持っていると思い込んでいると言うのです。

 ところがそんなインテリの人たちも、家に帰って家庭の中に入ると、従来の世間にいる人間のように振舞っているわけです。欧米人のようにはっきりとものをしゃべっているわけではなく、「空気を察しろや」と家族たちに強要しているのです。

 自分が教えている大学などでは、学生たちに、欧米型の人間であることはいいことだと喧伝しているにも関わらず。

 インテリではなくても、わたしたちのような下層にいる人間も、子供の頃には、欧米型の人間になるのはいいことだと散々吹き込まれたのです。だから物事は、欧米型のはっきりした物言いで全て解決するものだと、思い込んでいる人が多かったし、今も多いのだと思います。

 ところが現実の日本という国では、欧米型の個人などというのはちゃんと形成されていなくて、厳として存在するのは、世間という曖昧で複雑なものなのです。

 本当のことを言うと、日本の学校は、もっと世間のことをしっかり子供たちに教えるべきなのです。日本人はどう転んでも、欧米人とは違うのです。

 日本人があの驚異的な高度経済成長を遂げたのは、日本にあった世間というもののおかげです。世間というのは、人間の和を重視しますから、みんなで協力して何かをやり遂げようとする時には、物凄い力を発揮するのです。

 だから世間というものは悪いものばかりではないのです。人間は本来、協力して生きていかないといけないものなのです。そういう点で欧米の個人主義というのは、逆に色々と弊害があります。

 金子光晴という日本の有名な詩人は、何度かヨーロッパに住んだりしたのですが、欧米人のある種の冷たさにはどうしても相入れないものがあったと、阿部謹也さんは書いておられたと思います。わたしの書き方は不正確かも知れませんが、確か、そのような表現だったと思います。

 日本人という国民は、何もかもを理屈で割り切って済ますというのは、絶対無理なのです。いくら論理学をビシバシ頭の中に吹き込んでも、結局家や自分の馴染みの場所では世間流の生活をしているのですから。

 こんな国やからあかんと嫌悪するのではなく、こういう国やから、その特徴を生かしてこれからの世界を渡っていかないといけないのです。

 そのためには、インテリの人たちにまず分かってもらわないといけません。この国が、欧米型の理屈で動いているのではなくて、世間というものの力によって動いているということを。何しろインテリの人たちは、日本という国をリードしていく立場の人たちなのですから。

 実際に日本の政治や経済を動かしているのはインテリの人たちなのです。だからそういう人たちが、世間のことを無視している間は、日本という国の健全な発展はないと思うのです。

 日本はもう一流の国になったんやから、フランス人とかと考えてる内容は変われへんなどとは、夢にも思ってはいけないのです。

 日本が遅れていると言っているわけではありません。日本は欧米の国々とは違うということを力説したいのです。