「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

三十一、精神障がい者を生みやすい世間

 世間の改良というのは、少なくともわたしたちのような精神障がい者に落ちてしまった者たちには、手のつけようのない難題です。

 大体精神障がい者になるというのは、日本的な世間にうまく入れなかった人ばかりなのです。日本に精神障がい者が多いように思われるのは、この世間というものがあまりにも独特で複雑なために、どのように入ってどのような態度で日々を過ごせばいいのか、分からない人が多いからだと思います。

 阿部謹也さんも仰っていましたが、日本人は子供の頃から、日本人というものは既に近代的な個人を身につけていて、その個人の集まりである社会もちゃんと存在すると、学校などで教わってきました。だから人間関係というのはもっと合理的なものだとばかり思い込んでいます。その思い込みのままで会社などに就職すると、そこが全く合理的ではないことを知って驚くのです。

 はっきり言って、「聞いてないよー」と嘆息したくなるのです。

 年若いうちからクラブ活動などのような世間に所属することをしている人は、世間の人間関係というのは、ドロドロしているということを知っていますから、会社などに入ってもさほど抵抗はないのでしょう。

 その点で学校のクラブ活動というのは役には立ちます。世間という曖昧な場所で泳ぎ渡る術をあらかじめ会得していくわけですから。

 しかし会社などにいる大人たちの人間関係というのは、学生のクラブ活動などよりも、もっとドロドロしています。ホンネとタテマエを使って、うまく泳ぎ渡る必要があります。

 大体の人は無難に泳ぎ渡るようになります。そういう人は、既に年若いうちからドロドロしたものを見慣れているのでしょう。

 ところが精神障がい者になる人というのは、どちらかというと空想癖が強くあって、現実というものをはっきり直視することなく大人になる人が多いのです。そういう人が世間という、曖昧で複雑で厳しい現実の中に放り込まれると、すぐさま空想に逃げてしまい、いつしかその空想が妄想に変化するということがあり得るのです。

 頭の中で色々現実離れしたことを空想しているうちはいいのですが、目の前に存在するはずのないものが見えたり、存在しない音や声が聞こえたりするのです。

 そんな状態になったのに、あくまでも学校で教わったように、合理的な方法で問題を解決しようとしたら、奈落の底に転落していくばかりです。

 精神障がい者になるというのは、色々な場合があって、上に述べたような理由だけでなるわけではありません。わたしが述べたのは、あくまでも一例です。

 前にも述べたように、「空気を読む」という言葉があります。世間というところに身を乗り出したとなったら、空気を読むという態度はどうしても必要になってきます。

 欧米的な合理的な考えの中には、空気を読むという概念はないものと思います。何人かの人がいて、事態が自分には理解できなくなった時、欧米人は空気を読むなどというややこしいことはせず、はっきりと言葉に出して、「あなたたちはわたしに今、何を求めているのだ?」と訊ねます。そしてその言葉に対しては、必ずしかるべき返事があるのです。

 そのようなことを日本の世間でしていては、他の人たちにきつく睨みつけられるだけです。わざわざ言葉に出さずに、まわりの様子を見て察しろやと、無言の注意が矢のようになってこちらに刺さってくるのです。

 こういう場では、いじめというものも起きやすいのでしょう。差別があるとすれば、それは苛烈なものでしょう。

 日本人は、なるべく年若いうちに、自分が欧米型の社会に住んでいるのではなく、日本型の世間に住んでいるんだということを、知るべきなのです。