「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

四十八、お金が必要だからみんな世間に属しているのだ

 その上妻は、女性的な魅力もふんだんに持っていたので、男たちがひっきりなしに寄って来るのです。それもほとんどがつまらない男たちです。

 簡単に言うと、あれをしたいだけの男たちだけです。妻と人間的な交流をして、お互いを高めようなどという意識は、薬にしたくてもありませんでした。

 わたしにしてもそういう欲望はないではなかったのですが、そんなものは傍らにあるだけのもので、付き合い始めの頃から、妻との会話に夢中になりました。

 妻は知識という点では欠けたところがあるので、わたしが色々なことを教えるのを聞いて、とても喜んでくれるのです。

 前にも書いた通り、妻は本当は賢い人なのです。わたしはそれをよく知っています。

 ちゃんと理解できるように話をしてあげると、その辺の分からず屋の人たちの何十倍もの理解力があるのです。

 誰でも、ちゃんと話をしてあげたら、相当の理解力を発揮するもんやでと、言われる方もいらっしゃるかも知れませんが、いえいえ、そんなことはありません。妻以外の人は、そもそも他の人から何かを教わろうという気など全然ありません。

 ましてやわたしはどこかの先生などではないのですから、世間の最底辺で威張ってる奴の言うことなんか、聞いてたまるかという態度を取るのです。

 どんな態度を取ったって、わたしには痛くも痒くもありません。わたしは別に給料を貰ってそういう活動をしているわけではないのですから、聞きたくないという態度を取る人に対しては、「あっ、そう」と呟いて離れて行くだけです。

 そしていつしかわたしには妻一人がいるだけになりました。

 一人しかおれへんかったら寂しいやんと仰られるかも知れませんが、わたしは一向に寂しくなんかありませんでした。

 それに、たくさん話を聞いてくれる人がおるからって、喜んでる人たちの多くは、いざという大事な時には、誰も本当に話を聞いてくれる人なんかいないものです。

 世間というところは情緒的だと世間学の本に書かれてありましたが、ただ単に情緒的にベタベタした関係だというだけで、お互いの気持ちをケアすることは、ないがしろにされます。

 情緒的な感情のつながりを使って、お金を儲けていく。そういうつながりが主要なものなのです。直接お金を儲けることがないところでも、お金を儲けるための練習としての場が、世間というところなのです。

 生活のためのお金を稼ぐという目的がなかったら、誰も積極的に世間などと関わりたいとは思いません。給料が貰えないのに、せっせと会社に通う人なんかいないでしょう。

 デイケアの世間も、将来会社に馴染むことのできる練習のために通うのであり、宗教にしてみても、日本にある新興宗教などは、みんな、働くための訓練の場としてあるのです。

 もちろん、学校などはその目的しかないと言っても過言ではありません。

 だからお金をしゃかりきに稼ぐ必要のない人は、無理に世間に関わる必要はないのです。

 時にはいらっしゃいますね。親の遺産を多額に貰ったために、さほど大きいとは言えない家にほとんど閉じこもりきりになって暮らしている人たちが。

 今のわたしたち夫婦も、乏しいお金しか貰ってはいないとはいえ、しゃかりきに働かなくてもいいので、少ない人数の世間の中で暮らしていて、何の差し支えもないわけです。

 しかしいつかわたしも小説などで名をあげて、ある程度広い世間に出たいと、切に願っています。やはり自分たちの生活費は自分たちの力で稼ぎたいと願っていますから。