「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

四十四、意味も分からんのに命令に従っている人たち

 わたしはある意味馬鹿やったから、腑に落ちないことでも何でも記憶していたものです。だからテストの点数はよかった。テストの点数はよかったけれど、自分でもどうも、自分は賢くないと、常々思っていました。

 情緒も不安定であり、人としゃべってもろくなことも言えなかったので、こんなんでテストの成績だけよかったって、何の意味もないやんと思っていたものです。

 しかし記憶だけできる馬鹿の方が、世間というところでは、過不足なく過ごせたようです。学校の教室などにいても、居心地が悪いなどとは、あまり思ったことはありません。

 ところが妻の場合、どうしても単なる丸暗記ということができなかったので、テストの点数も上がらず、学校の先生に、いちいち、「これはなんでこうなるんですか?」とうるさく質問をしていたので、先生たちにも嫌われていたようです。

 なんでこうなるんか分からんかったら、何も記憶でけへんし、何も行動に起こされへんというのは、考えてみれば、人間の生き方としては、真っ当なものではないでしょうか?

 意味も分かってないのに、上の人の命令やからといって、その通りにやり遂げてしまう能力って、日本の会社や役所では重宝されるかも知れませんが、人間の生き方としては、おかしいんやないでしょうか?

 意味も分からんのに、上の人の命令やからといって、何でもやってたら、いつか知らん間に悪事に手を染めていて、気がついたら警察に逮捕されることになる。そのまま逮捕されたら、上の人のもっと大きな悪事を暴露せなあかん羽目になるから、仕方なく首を吊って死なないといけないことになる。

 そういうことって、よくあるようなのです。

 たかが下級役人や下級社員の一人や二人が首を吊ったって、役所や会社では痛くも痒くもないのでしょう。上層部の偉いさんが逮捕でもされるよりは、はるかにましなのです。

 しかしそんなん、ひどいと思いませんか?

 日本はいちおう近代社会を築いていると言われている国なんですよ。そんな国で、まるで江戸時代みたいな悪風が残っているやなんて、おかしいです。

 しかし世間というものは、江戸時代どころか、もっと大昔から日本にあったものなので、そういう風習は、今のような現代でもおかしいものではないのです。

 世間というところには、人権などというものはありません。人間は、一人一人存在するものではなく、世間のために生きているのですから、世間を守るために自死するくらい、なんでもないことなのです。

 いやいや、そんな理不尽なことが何でもないことやなんて、絶対におかしいです。

 会社や役所なんか、他の誰か分からん、会ったこともない、どこの馬の骨か分からん奴が作ったものなんやから、そんなもののために死ぬなんて、絶対におかしい。

 わたしの言うことは正論です。しかし世間という場では、正論などが通らないことが、ままあります。

 会社といっても、そんな場合の会社というのは、とてつもなく大きな企業のことを指すのでしょう。そして役所というもの。たとえ死にたくないと思って大企業や役所を辞めたとしたら、その人は次にどこに勤めたらいいのでしょう?

 そんな人はかなりの給料を貰っていた人たちでしょうから、コンビニの店員などをしていては、家族の生活は成り立ちません。かといって、前と同じくらいの規模の会社に入ろうとしても、日本には転職のシステムができていないので、どこも行くところはないでしょう。

 そういう人たちの行くところは、あの世しかないのです。