「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

四十、世間とお金儲け

 もちろん、わたしだってお金は入用です。お金が全くなければ、すぐ次のご飯も食べられません。お金のあるなしは、命に関わる重大事になるのです。

 しかし世間というのは、そう簡単にお金をくれるところではありません。やっと誰かのお口添えで会社という世間に入ったところで、そんなところは給料は安く、毎日毎日身を粉にして働いたところで、家賃と光熱費を払ったら、あとは乏しい食費しか残らず、何か文化的な趣味をしようとしても、余分なものは何も買えません。

 株で大儲けをしている上層部の世間に入るなどというのは、さらに難しいのです。

 そういうところでは、犯罪にまでは決して至らないのですが、それなりの悪いことに手を染める度胸がなければ、仲間には入れてもらえません。

 お金儲けというのは、何も道端に落ちているお金を拾うことではありません。世の中の人が財布に隠し持っているお金を、何やかんや言って、できるだけ多くふんだくることなのです。その理由はそれなりにもっともらしいのですが、要するに人の財布からお金をふんだくるという点では共通しています。

 そんな行為が美しいはずがないでしょう。ドラマなどでは、お金儲けの現場が礼賛されているようなものが、どんどん作られていますが、やはりお金儲けというのは、ある程度の悪意がないと、たくさんは儲からないものです。

 そうした悪意を包み隠して、なるべく集団になって事業を進めて、いかにも自分たちはいいことをしているんだと誤解させる機能を持っているのが、世間というものなのです。

 世間の仲間がみんな機嫌がいいのだから、きっと自分もいいことをしているんだと、そのように言い聞かせることは可能だからです。

 だからバブル景気の頃、世間という隠れ蓑を持っている日本人は、外国人たちが目を丸くして驚くような悪い商売を平気でできたのです。悪い商売をしたあとは、東南アジアに集団で旅行して、別の悪いことをして遊び回る。

 世間というところは、内部にいる人たちに対してはとても友好的で親切なのですが、世間の外部に対しては、信じられないくらい冷淡なものなのです。

 阿部謹也さんは書いておられましたが、世間の外部にいる人たちというのは、世間の成員たちから見れば、人間ですらないのです。だからどんな失礼なことをしても平気なのです。

商売が絡むと、失礼なことは単なる失礼ではすまないのです。商売で失敗したがために、首を吊らないといけない羽目に陥る人もいるのです。

自分が首を吊るような仕儀に至らないためには、人間は、どこか強力な世間に属していないといけません。人間は、できれば生き続けていたいものですから、首を吊ることに比べたら、ある程度の悪事に手を染めるくらいならよしとするのです。

世間というのは、差別や村八分やいじめという要素を色濃く秘めた、恐ろしいところでもあります。同時に、世間に守られて生きていければ、信じられないほどの金持ちになることも可能なところなのです。

いいところもあれば悪いところもあると、それだけのことを言って、ぼんやりしていてはいけないのです。やはりどうしても差別や村八分やいじめというものはなくしていかないといけません。

差別は、部落差別というようなものが単独で存在するものではありません。世間というものの中に既に差別があるのです。世間内部にある差別をなくすように努力しないと、世間の良さというものを礼賛してばかりはいられないでしょう。逆に世間があるから世の中腐ってるんやと、非難されても仕方がないのです。