「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十、きれいごとだけでは生きてはいけない

 人は、初めて別の人に出会った時から、ある程度の判断をします。「ああ、この人、いい人やなあ」とか「こんな奴、いやや」とか色々です。

 印象に残らない人に対しては、記憶にも残らないその他大勢の中の一人となるわけです。

 さてそれからが問題なのです。

 わたしたちだけではなく、今の若い人たちもそうかも知れませんが、小学校の先生たちあたりは、子供たちに「人を差別してはいけません」とか「人を分け隔てしてはいけません」という教育を、とにかくしつこく与えています。

 子供の頃から色々な現実にぶつかって、それなりに成長している人たちは、そんな先生の言葉を、話半分に聞くことができるのでしょう。それはそうやけど、現実はそうはいかんよと。

 しかしわたしのような真面目だけが取り柄で、色々な人と接していないひ弱な子供たちは、先生の言うことを、本気で信じてしまうのです。

 同級生の子たちに対してはいつも優しく、どんな人たちに対しても平等に接するというのが、生きる鉄則になっていくのです。

 しかしそんな鉄則は、社会に出てみると、全く通用しないのです。

 社会と言えば、欧米的な意味の社会ではありません。日本人にとっての社会とは、入社した会社と同義ですから、まあ、会社という世間のことです。

 会社という世間では、人は決して平等ではないのです。もちろん、役職名があって、その名前によって上下関係ができています。そして年齢によっても上下があります。

 上下関係を決めるのは、その二つの要素だけではないのです。その他様々な要素があって、同輩の者たちの間でも、いつの間にか上下関係ができてしまうのです。

 年が上だからといっても、役職が下だったり、どう見ても尊敬できない人やったら、下に見ることもあります。馬鹿でも、社長の縁者やったりしたら、ヨイショと持ち上げたり。

 いかにも腕力の強そうな男もいるし、入社したてやけど、絶世の美女やから、みんなからチヤホヤされるとか。

 それに会社というところに限らず、どこの世間でも、派閥というものがあります。

 その世間の成員である限り、どこかの派閥に入らないといけません。他の派閥の人に対しては、たとえ向こうが先輩であっても、冷淡に対するということもあります。

 そういうところでは、人の好き嫌いというのも、もろに表現されるでしょう。会社というところではもちろん、あらゆる世間というところでも、人を分け隔てすることは、至極当たり前のことなのです。

 さてわたしのように、小学校の先生から、「人を分け隔てしないように」と教えられて、その言葉に素直に従ってきた人間は、会社という世間に入って、そんな言葉が全く通用しない現実を見て、どうしたらいいのか分からなくなるのです。

 世の中、きれいごとだけやったら通用せえへんことくらい、あほやなかったら知ってるねんけど、まさかこんな汚いとこやとは思うてなかったと、ショックを受けることがあるのです。

 そのようなショックを受けるような人が、精神障がい者になりやすいのです。

 なるべくきれいな心を持った大人たちが増えて欲しいという理想に燃えて、小学校の先生方はそのようなきれいごとを教えるのでしょう。もし世の中に汚い現実を見ても、その汚さと戦うくらいの気概を持ちなさいと願っているのかも知れません。

 しかしきれいごとしか知らない若い者というのは、実に脆い存在なのです。