もちろん、きれいごとが通用しないのは、日本の世間だけではなく、欧米の社会でも同じでしょう。人間というものは、意地悪で嫉妬深いものですから、ちょっとでも弱いと認められた者は、いじめられたりするのです。
だから世間というものが全面的に悪いところで、社会は美しいところだと言いたいわけではありません。社会にもいじめの百や二百はあるでしょう。
そこで『人権』とか『権利』とかいう言葉が登場するのです。
特に人権という言葉は、日本の世間に存在はするのですが、単に言葉が存在するだけで、実質としては存在しないと、世間学の様々な著作に書いてありました。
抽象的な意味での人権ならあります。小学校の先生は、毎日のように子供たちに、「人権を大事にしよう」と訴えかけています。
しかし具体的に誰々君がいじめられたとした時、その人の人権を守ろうという動きにはならないのです。
世間には上下関係がしっかりあるということは、前に述べました。そのしっかりした上下関係の弊害が、いじめという現象を生むのです。
上下関係があるということは、最上位のグループがあって、最下位のグループがあります。最下位のグループの中から、誰かが不都合な扱いを受けることがあったとしても、世間の成員たちにとっては、それは仕方がないと見なすより他ないのです。
欧米の社会は、社会の中ではみんな平等だから、どんなに地位の低い人にも人権があるということは認められ、それを守るための運動も起こしやすいのです。
しかし世間というところは、どこをどう見ても平等ではないのです。平等ではないことを、世間の成員たちも認めているので、人権などという言葉があっても、それを盾にして運動するなんて、とんでもないことなのです。
社会にも上下関係があるのですから、世間に上下関係があっても至当なところでしょう。しかし世間にある上下関係というのは、あまりにもしっかりしていて理不尽にできています。
わたしたちは、子供の頃から、たった一年年上であるだけで、「先輩」と呼んで崇めなければならないという風習の中で育ってきました。それはあまりにも理不尽な悪習だとわたしは考えます。
日本人が、「あっ、彼はぼくの後輩なんだ」という言葉を吐くと、欧米の人はみんな笑うそうです。
後輩っていうても、たいして年も違わんのに、なんでそんな区別つけなあかんのん? ただの友達でええのんちゃう? というわけです。
体育会系のクラブ活動に入ると、たった一年年上だけの先輩の命令となったら、目の前で土下座をさせられても当たり前なのです。
わたしも中学一年生の時にバスケットボール部に入りましたが、二年生のいじめに近いしごきのトラウマが今も残っていて、テレビなどでバスケットボールの試合のシーンなどが映っていたら、瞬時に嫌悪感が湧き上がってきます。
今でもまだ、体育会系のクラブ活動を題材にした漫画などが流行っています。その中で描かれる友情や闘争のシーンなどを読んで、若い人たちは、血沸き、肉躍る思いがするのでしょう。
ということは、日本人はまだ昔の軍隊式の規律ある上下関係が好きで好きで仕方がないということなのです。これでは世間の理不尽な上下関係に異を唱える人など出てこないし、いじめなどがあっても、なかったことのようにして日々を過ごすことをやめないでしょう。