「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十二、戦争を起こしたのは世間だ

 その昔、日本をあの無謀な戦争に導いたのは、指導的な地位にあった政治家たちなどではないのです。あの人たちが命令しないと、戦争は始まらなかったでしょうが、そんな戦争を命令しようという気になったのは、日本という国全体の世間というものが、戦争をしたいと訴えたからなのです。

 あの頃、日本は、中国や朝鮮などに無理な侵略を続け、欧米諸国が反対したにもかかわらずその言葉に従いませんでした。そしてついにアメリカの怒りを買い、日本にとっては命綱とも言える資源の供給を止められたのです。

 世間というところは、全く理性的ではなく情緒的なので、根性があれば、アメリカに勝つこともできると考えたのでしょう。何しろそれ以前に、あの大国ロシアにわれわれは勝ったのだから。

 それで日本という神の国を苦しめるアメリカは大悪人だと、すっかり決めつけたのは、東条英機でも山本五十六でもなく、日本という世間そのものなのです。

 普段は、世間というものは、小さなものが無数に重層的に存在するものに過ぎないのですが、いざ憎しみが外国の敵に向かうと、日本全体が一つの世間になるのです。

 国民は誰も戦争なんかしたくなかったのに、政府の上層部が勝手に国民を戦争に駆り立てたのだと、浅はかなことを言う人がいますが、心ある人たちはみんな、そんな意見が浅はかだということを知っています。

 七十年以上前の戦争を主導したのは、日本という世間そのものなのです。政府の上層部はみんな、まわりの顔色を窺う政治家たちばかりで、そんな指導力などあるはずがありません。

 戦争中に、『非国民』などとレッテルを貼られて非難されたり、投獄されたりする人たちがたくさんいましたが、その人たちをそういう目にあわせたのは、首相でも天皇陛下でもありません。日本の世間がそれを主導したのです。

 世間の人たちは、お互いどうし監視をし合い、近所の人がちょっとでも戦争を否定したことを言ったりしたら、平気な顔で密告しに行ったのです。それまで仲良くしていた隣人が、牢屋に繋がれても、日本国という世間のためには正しいことだと、信じていたのです。

 そんな時代には、世間の中の一つの要素である、排外的なものが強くなるのです。外国人はもちろんのこと、戦争に対して懐疑的な人たちをも、非難の的にするのです。

 そして今、二〇二〇年代になった今、終戦から七十年もの月日がたった今になって、日本という国は、また、あの頃の排外的な世間になろうとしているのです。

 わたしの子供の頃には、日本には世界でも稀な平和憲法があると、小学校の先生が誇らしげにわたしたち子供に言い聞かせている図がありました。わたしもとてもいい国に生まれたことに、限りない幸運を感じていたものです。

 しかし今はその平和憲法を見直そうという気運になっています。安倍晋三氏が突然亡くなったために、その気運は少し萎んだように見えますが、それは一時的なものだと思われます。

 あんなに憲法改正に反対していた日本という世間が、今や、憲法改正に賛成する人の方が大多数になってしまったのです。

 もちろん、冷戦終結などがあって、世界情勢が昔とは違ってしまったという要素はあるのでしょう。いつまでも平和憲法を固持していては、その憲法を押しつけたアメリカ自体が困るという時代になったのかも知れません。

 しかし日本という国土の狭さ、資源の乏しさなどを考えて、戦争になど巻き込まれては、勝つ見込みなどないのは、誰が見ても分かりそうなものです。

 それとも世間特有の情緒的な神風が吹いて、奇跡が起こるのでしょうか?