「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十七、日本には、個人や社会は必要なのか?

 だからわたしは言いたいのです。日本の良さにもっと自信を持って欲しいと。

 日本人はすぐに欧米の方が優れていると思いたがり、自分たちも欧米人のように振る舞い、考えないといけないと思いがちです。

 ところがそれは無理な相談なのです。

 欧米にはしっかりとした個人がありますが、日本の個人など、非常に微弱なものでしかないのです。そしてその差は人間の一生くらいの時間では決して埋まらないものなのです。

 欧米人というより、西洋人は、個人というものを、それこそ五百年、六百年もの年月をかけて、苦労して達成したのです。日本人だって、もし西洋人のような個人になろうと考えるのなら、あと少なくとも三百年は苦労しないといけない勘定になります。

 果たして西洋人と全く同じ個人に、日本人がなる必要があるでしょうか?

 個人がしっかりできて、社会というものを形成して、世界をリードする立場に立てたヨーロッパ世界なのですが、その代わり他の地域に比べて戦争は多かったという歴史があります。特に宗教戦争は、ヨーロッパほど苛烈なところはなかったのではないでしょうか。

 数多くの苛烈な宗教戦争を経て、今の個人と社会を手に入れたのですが、あまりにも犠牲が多すぎると思いませんか? そんな歴史を日本が繰り返す必要はないのです。日本には世間という強固なものがあるのですから、それをうまく生かして、他の国々にはできない新しい文化を作っていけばいいのです。

 それはどんな文化なんや、と詰め寄られると、わたしも困ります。わたしが言いたかったのは、何も今さら欧米の真似をして、個人やら社会やらを意識しないでもいいんじゃないかということなのです。

 ただ、世間があるからといって、今のままの世間をそのまま継続していってもいいわけではないということです。世間の中にドンとある、差別的なところを、どうしても除去しないといけません。

 そのためには、まず、日本には世間というものがあるということを、政府や知識人の人たちがはっきりと自覚することから始めないといけません。何しろ国をリードするのは、そういう人たちなのですから。

 今までこの国の進み行きが何となく変だったのは、ほとんど存在していない個人や社会の方ばかり、全面に押し出して、厳として存在する世間というものを無視していたからだと思うのです。

 日本という国をダイナミックに動かしているのは、世間なのです。個人や社会は、存在はしていますが、国を動かすほどの強さは全く持ち合わせていません。

 さて、ここまで世間のことを礼賛していたのですが、次に世間の問題点について論じないといけません。しかし世間の問題点に関しては、これまでも多くの人たちが述べてきたことなのです。

 世間というものの悪口に関して言えば、あらゆる人からいくらでも聞かれることでしょう。人々はそのように、世間というものを憎んでいるのです。憎みながらも、それに依拠して生きるより他ないから、仕方なく世間のルールに従っているというのが現実です。

 世間というのはイメージが悪いのです。だからわたしがここで、これから世間を大事にして生きようなどと言うと、何言うてんねん、このあほと、どっかから石が飛んで来るかも知れません。

 では、イメージのいいはずの欧米式の個人や社会という概念にしても、いいところばかりではないことは、ご存知でしょう。欧米では、人なんか信用でけへんという考えがあるから、そのようなものが作り出されたのです。

 そういう意味で、世間というものを強固に温存している日本人というのは、人間をまだ信用している国民なのです。