「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

二十七、まず世間に馴染んでみる

 もちろんそれはただの占いであって、そんなもん、でたらめに決まってるやんと言う人は言うでしょう。別に何を仰ってもらっても構いません。その後数年してわたしは、保健所のグループやデイケアの中で、とても明るく活発な人間に変貌を遂げたのですから。

 わたしは元々世間向きの人間だったのです。人生の早いうちにどこかの世間に所属していれば、四十歳くらいになったら、既に重鎮とも言える地位に就いていた可能性があるのです。

 前に日本には社会はないと書きましたが、あれは誤りで、日本には日本なりの社会があります。ただ西欧型の社会が形成されていないので、日本の社会というのはうまく機能していないだけなのです。

 その代わり日本には、世間という、古い歴史のあるシステムがあります。

 世間というところは、差別やいじめの温床になるところだから、よくないところだという面もあります。排他的なところも、今のグローバル化の時代には合わないところです。一方で、いいところもあります。

 聖徳太子以前の昔から、日本には、「和を以て貴しとなす」という美徳があります。人間は一人では生きてはいけません。何をするにしても、他の人たちの協力が必要です。人の協力が必要な時に、いちいちまわりの人たちといがみ合っていては、何の作業も進まないでしょう。

 人の和というものを大事にするために、日本人は世間というものを作ったのです。

 阿部謹也さんは、十二世紀頃までの西洋にも世間があったと書いておられます。その当時は、世界の他のところにも、無数の世間があったのに違いありません。

 今では世間というものがこんなにしっかり残っているのは、日本だけという時代になりました。それが今弊害を呼んで、日本という国が落ちぶれていく原因を作っているとも書いてありました。

 だからと言って世間を全廃したらいいかというと、それはできないと阿部謹也さんは仰います。世間を全廃して西欧型の社会を作ろうとしても、日本には西欧型の個人というものがありませんから、そんなことをしたら日本というものがぶち壊しになってしまいます。

 せっかく世間というものを、これだけ長いこと温存させてきたのですから、それをうまく使わない手はありません。ただ改良はしていかないといけません。どのように改良したらいいのか、その方法については、まだ誰も提唱できない段階にいると思うのですが。

 デイケアに十年ほどいて、わたしは生まれて初めて世間の居心地の良さを体験しました。日本人として生まれた限りは、人生のどこかの時点で、それもかなり長い間、一度は世間の温かみを知る機会があった方がいいと思うのです。

 世間と言えば、「世間体が悪い」とか「そんなことしてたら世間が許せへん」とか、悪い意味合いで使われることが多いです。だから世間のしがらみに縛られない自由な生活をしたいとみんなは渇望するのですが、残念ながら日本という国には世間しかありません。

 世間しかないんやったら、まずどこかの世間に入って馴染んでみるより他ありません。そこで世間の問題や矛盾を見つけたら、世間の中である程度の重鎮になった時に、少しずつ改良していけばいいのです。世間の人たちも、重鎮の言うことなら、ある程度は従いますから。

 世間はいややと言って、ただ世間を避けているばかりでは、友達の一人もできない寂しい人生を歩むだけです。

 デイケアという、一般的には何の役にも立たないと思われている世間の中で、ゆったりと馴染めたことは、それからのわたしの生活をとても楽にさせてくれました。