「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十一、デイケアなんかに馴染んでどうすんねん

 そうした気楽さが功を奏したのだと思います。そしてそういう気楽さは、日本の世間の中に入る場合、とても大事な要素なのです。

 先にも書いたように、わたしはただデイケアを、喫茶店の代わりくらいにしか考えていませんでした。どんな人がいて、どんなことをしゃべっていようが、わたしには全く関わり合いのないことでした。

 そして料理はいや、作業はいやと、いやなことをはっきりと言いました。もしそのことでみんなに不興をかってデイケアを追い出されたとしても、わたしには一向構わなかったのです。

 わたしはそのように極めて消極的な気持ちでデイケアに通っていたのです。消極的というより、完全に馬鹿にした態度ですね。それは今から考えたらよくなかったと思いますが、世間に馴染む時に消極的態度を取ることは、案外功を奏します。

 欧米のような、積極的態度より、消極的な態度の方が、世間に馴染むにはぴったりのようです。変なルールやなあと思っていても、その気持ちを敢えて外には出さずに、素直に従う。あまりにも大きな差し支えのあることは従えませんが、そうではないものは、別に気にしない、そういうやり方が大事です。

 世間という所には年功序列という身分があると、世間学の方々が書かれていますが、その通りです。たとえ年が下でも、自分より先に入った人は先輩なのです。だから何か頼み事でもする時は、当然敬語を使います。

 そんなのは、馴染んでいくうちに修正できることなのです。最初は敬語でしゃべっていても、相手との関係が良好に進行していけば、次第に年齢や能力にふさわしい言葉遣いになっていくものです。

 だから入った最初から、お前は先に入ったけれど、俺より年下やから、敬語でしゃべれと威嚇的態度を取る必要はないのです。威嚇的とまではいかないですが、年齢の長幼をとても気にする人が、世の中には多々います。

 そんな風にして、わたしは次第にデイケアという世間の中に馴染んでいくようになったのです。

 会社という所はお金を貰える所だから、毎日せっせと通う意味があります。けれども毎日クリニックのデイケアに通っているなどと誰かに言おうものなら、そんなとこいつまでも通ってんと、はよ働けと叱咤されます。

 実際母はそのようなことをわたしに述べました。

 確かにそうです。三十五歳も過ぎた男が、金持ちでもないのに、お金を一円も貰えない所に毎日通っているなんて、恥ずかしくて誰にも言えません。

 それで時々職安に行って、面接に出かけ、採用されたこともあります。採用されたのだから、毎日通うのですが、どうしても続きません。

 以前やっていた手動機の写植オペレーターの仕事は、既に絶滅していて、募集はありませんでした。他にしたい仕事もありませんでした。

 したい仕事がなくても働くのが当たり前のことです。人間、働くためにこの世に生まれてきたと言っても過言ではありません。少なくとも日本という世間では、それは常識です。

 日本という世間では常識だと書いたのには、理由があります。これは世間についての話から離れるかも知れませんし、わたしが働かずにすませるための言い訳にしか聞こえないかも知れませんが、敢えてここに書きます。

『信州読書会』というユーチューブチャンネルのことを最初に書きましたが、そこの主宰者の人が述べていた言葉にこんなものがあったのです。「俺たちは働くために生きてるんじゃない。休むために働くんだ」

 これはフランス人が今でもよく言う言葉だそうです。言葉は正確ではありませんが、こういう意味のことをよく言うそうです。