こうしてはならない、こんな願望を持ってはならないというような足かせのなくなったわたしは、人生で初めてと言っていいほどの、安定した精神を持つことができるようになりました。
入院している時に、ある年配の入院者の人に、障害者年金というもののある話を聞いていたので、近くの保健所に相談に行きました。そのことがわたしの人生を大きく変えました。
貰えるようになった障害年金の高は、月に六万五千円ほどのもので、独立して生計を立てるには、全く足らない金額だったのですが、わたしはその頃保健所のグループに通ったり、クリニックのデイケアに所属するようになり、それまでの生活とは全く違った生活に入りました。
もちろんわたしはまたすぐに働きに行って、普通の人のような真っ当な生活をするつもりだったのですが、次第にデイケアでの生活に馴染むようになってきたのです。
それからわたしは十年ほどの月日を、そのデイケアで過ごすことになりました。そこはわたしにとって次第に重要な世間になったのです。
子供の頃から通っていた学校も、一年か二年でクラス替えをするもので、学校を卒業してから入った会社も、せいぜい長くて一年半くらいしか同じ所に所属したことがありません。わたしにとって、同じところに十年も所属していたというのは、そのデイケアが初めてのことだったのです。
それはデイケアですから、もちろん職場ではありません。給料を貰っている職員たちにケアをしてもらう、単なる治療の場なのです。健康保険と公費とでわたしの支払いは免除されてはいますが、書類上ではわたしはお金を払って通っているのです。決して給料を貰えるわけではありません。
給料を貰って税金を払うわけでもないのだから、そんな所早いことやめて、働けと怒鳴られそうですが、どうか怒鳴らずに聞いて下さい。
この文章は、あくまでも世間学に関係のあるものとして書いたもので、世間学を述べる現実の例としてわたしの人生を辿ることにしたのです。精神病院に入って世間から弾き出された格好になったわたしの人生は、世間のことを語る上で少しは役に立つと考えたわけです。
デイケアは木曜日と日曜日が休みで、土曜日は午前で終わりです。開いている全ての日にわたしはデイケアに通っていたわけです。
普通、精神科のクリニックのデイケアに行って人生変わったなんて言う人はいません。はっきり言って、そこは、どこにも行き場のない精神障がい者たちの暇つぶしの場でしかありません。
わたしも入った当初はそのつもりでいました。それまで昼から自転車で駅前の喫茶店まで行ってそこで本を読んでいたのですが、デイケアはその喫茶店代わりくらいの意識しかありませんでした。
午前の十時から始まるところなのに、わたしは昼から顔を出していました。毎週水曜日にある料理にも出席せず、時々行われる作業にも参加しませんでした。
デイケアの主要なメンバーさんからは、「なんや、あいつ」という冷たい目で見られていたそうです。
どんな目で見ようと、その頃のわたしには関係のないことでした。こんなところ、何か月かおったら、すぐさま仕事見つけてやめてまおう、そう考えていたからです。
障がい者年金というのはもっと高額だと期待していたのですが、実際に貰った金額だけでは、一人で生活するのは無理です。年金プラスアルファという形で、ある程度稼がないと仕方がありません。