「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十二、日本には『社会』も『個人』もない

 フランス人の労働者は週に四日くらいしか働かなくて、就業時間も短いそうです。それでどうやって生活していけるんやと疑問がありますが、フランス人は少ない収入で人生を楽しむ術を心得ているそうです。

 むしろ楽しまないとそれは人生ではないと考えているのです。日本人のように過労死するというのが、彼らには全く理解できません。人間、生きるために仕方なく働くのであって、決して死ぬために働くのではありません。それなのに日本人には、死ぬために働いている人がたくさんいます。

 わたしが三十五歳くらいの時は、まだ『信州読書会』はこの世に存在しませんでしたから、影響を受けようがありませんでした。だからわたしは迷いながら、働いたり辞めたりデイケアに通ったりしていたわけです。

 そして次第にデイケアという所が楽しいものに思えてきました。楽しいだけではありません。デイケアに所属する間、わたしはその後の人生にとても役に立つ勉強をさせてもらいました。

 前に書いた、ある世間に馴染むためには、積極的態度よりも消極的態度の方が功を奏するというのも、デイケアにいて学んだ知恵です。

 働いている時のわたしは、時には職場という世間から弾き出されたこともあります。どんなに一生懸命挨拶をしても、みんなから無視されたこともあります。

 された当時は、なんでやろうと不思議に思ったものですが、自分が追い出したり無視したりせざるを得ない立場に立った時、世間の理屈というのがよく分かりました。

 もちろん無視したりするのは一種のいじめですから、あまりしてはならないことだろうとは思いますが、世の中にはわざわざ注意をしても仕方がない人というのはいます。そんな人に時間を割いていたら、時間を割きたいと思っている好きな人と接する時間が少なくなってしまいます。

 わたしはお釈迦様でもなく、親鸞聖人でもありません。そんな偉い宗教指導者になりたいと、一度も思ったこともありません。

 わたしはつまらない一介の精神病者です。世間の模範となるような人間である必要はありません。好きな人は好きな人、嫌いな人は嫌いな人。そのように分け隔てをして、何が悪いのでしょう。

 小学生の頃はよく言われたものです。人を差別してはいけません。分け隔てをしてもいけません。

 世間学の本にありましたが、小学校の先生などが言っているきれいごとは、全てタテマエに過ぎないのです。

 明治時代になって『社会』という言葉と『個人』という言葉を日本は輸入したのですが、それから百五十年ほどたった今になっても、日本には『社会』も『個人』も存在しないのです。

 しかし学校の先生、特に小学校の先生というのは、日本には『社会』と『個人』がしっかり根付いていると思い込んでいる人が多いのです。

 もし日本に社会と個人が根付いていれば、人を分け隔てしてはいけないという言葉も、単なるタテマエではなく、ホンネとして言えるはずです。

 しかし日本にあるのは社会でも個人でもなく、世間だけなのです。世間というところは複雑なところで、そんな簡単な言葉など通用しないのです。だから世間をそんなタテマエだけで通行しようとしたら、かなり無理のある人生を歩まないといけないわけです。

 そしてわたしは年若い頃から、そのような無理のある人生を歩んできたのです。