「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十三、人に優しくばっかりしてられない

 小学校の先生に言われたことは、二十歳を超えた大人になっても心の中に残っていて、できるだけ理想的な人間になろうと心がけていたものです。

 どんな時にも正直でいて、人に優しくするという教えも、わたしは一生懸命実行していました。その努力の末にわたしの得たものといえば、あいつはあほやという嘲笑だけでした。

 世の中、お金ばかりが大事ではないです。いや、先生、違うで、世の中はまずお金が大事やねんで。それにいつも正直にしてたら、交渉事の一つもでけへんから、大人扱いしてくれへんやん。人に優しくばっかりしてたら、相手はずかずかとこっちの領域に入ってきて、無理難題ばっかり押しつけてくる。

 全て、小学校の先生の言ったタテマエの言葉を信じたわたしが馬鹿だったのです。

 とはいえ小学校の先生も、何も意地悪でそんなタテマエを吹いていたわけではありません。これから大人になる日本人たちを、欧米と同じように、社会と個人のしっかりした人物に育てようという意欲があってのことだったのです。

 しかし日本は、生まれ育った家庭そのものに、個人というものがありません。子供が親に自分の意見を主張しようとしたら、必ず返ってくる言葉がこれです。「屁理屈ばっかり言いなさんな」

 それで黙ってしまうわけです。自分の主張を述べる習慣がなくなるから、当然個人というものも形成されません。

 個人のない人間が集まって形成される世間において、小学校の先生の語るようなタテマエが通用するはずがないのです。

 だからなるべく正直であってはいけないわけで、人に優しくするのも休み休みにしろということなのです。時には無視したり、世間から追い出したりする悪行も必要になるのです。

 わたしは会社の仕事に関しては大体不真面目でした。真面目にしようとしてもすぐに疲れてしまい、結局次の日に欠勤したりするものですから、真面目を維持できません。そして根本的に会社の仕事に対して不信感を抱いていました。

 ここはそのことについて詳しく話す場所ではありませんから割愛します。もし後でゆっくり語れる時が来たら、その時にゆっくり語ります。

 会社の仕事に対して不真面目な社員に対して、他の社員たちが好意的な目を向けてくれるはずがありません。

 みんな、この会社は自分にとって大事な世間やと思って、毎日働いているのです。その大事な世間のことをないがしろにするような人間に対して、冷たい目を向けることくらい当たり前のことです。

 わたしはただ当たり前の待遇を受けただけです。それ以上特別にいじめられたわけでもありません。

 クリニックのデイケアに随分馴染んできたわたしは、新しく入って来る人たちを注意深く見て、心の中で、こいつはええ、こいつはあかんと振り分けていたものです。

 注意深くと言っても、ちゃんと意識してやっていたわけではなく、頭の中の無意識の領域で行われていた作業でした。

 わたしの冷たい視線のせいでデイケアをやめてしまった人は、たくさんいると思います。わたしは非常に悪い奴です。デイケアの癌だったのかも知れません。

 しかしそのような人がたくさん存在するのが、世間というものなのです。

 気に入らない人を指差して、「お前なんか出て行け」と命令したわけではありません。その人がデイケアに来なくなったのは、空気のせいです。わたしがその空気の元になっていたのなら、わたしは悪人になるのですが、さて、そのようなことって、皆さんもありませんか?