「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十四、世間のよいところ、悪いところ

 そういう人に対する意地悪が、世間の秩序を保っている場合もありますが、悪行であることには間違いありません。問題は、そんな悪行の行われる世間というものが、本当に必要な存在なのかということです。

世間学の本を読めば、世間というものが存在するのは、世界でも日本だけだそうです。阿部勤也さんによれば、十二世紀頃までのヨーロッパにも世間というものがあったそうですが、キリスト教の普及によって、それは消えてしまったそうです。

 それからヨーロッパ個人というものが発生して、その個人の集まりが社会というものを形成したそうです。

 ヨーロッパは、およそ八百年の時を経て、今の個人と社会のある世界というものを作り上げたのです。

 日本が個人と社会を輸入したのは、高々百五十年前のことです。そんな短い期間で、ヨーロッパ並みの個人と社会ができるはずがありません。

 いや、日本人は、個人と社会という言葉を輸入はしたが、その実その二つの言葉をこの国に打ち立てようという意図はなかったようなのです。日本人にとってあくまでも大事なのは、世間だったのです。

 世間が何故そんなに大事なのか? それは世間というものが、そこにしっかり馴染んでいる人たちにとっては、様々な利益をもたらす、便利な機構だったからなのです。

 要するに世間のルールに従っていれば、生活するお金が儲かるどころか、驚異的なお金持ちになる可能性もあるからなのです。

 そんなお得な世間を、世間の上層部の方々は捨てる気はありません。下層にいる人たちも、世間にしっかり取り入れば、お金持ちになる可能性があるのですから、ぜひとも世間が必要なのです。

 もちろんお金持ちになるだけが目的だったら、そんなことに興味はないという人も時にはいますから、そういう人たちによって世間の瓦解が始まりそうなのです。

 ところがそうは問屋が卸さないのです。

 最も簡単な例として、村社会という世間があります。そこでしっかり馴染んでいる人たちは、様々な利益を得ます。一方で、俺はそんな利益なんか欲しくないから、世間のルールになんか従わないというわけにはいかないのです。

 そういう人に対して行われるのは、村八分という制裁です。

 世間のルールには従わないと頑張ったところで、その人はやはりそこに住み続けないといけません。何しろそこには先祖代々の家があるからです。

 その家を捨てて都会に家族ごと住み着いたとしても、やはりそこにも世間があります。結局は誰でもどこかの世間のルールに従わないと仕方がないのです。

 会社というところも世間の一つです。特に大企業ともなると、そこには強固な世間が形成されています。

 よほどの変わり者でもない限り、大企業をさっさと辞めてしまう人はいません。大企業という世間のルールに従い、そこにしがみついていることによって、人並以上の収入を得ることができます。

 従ってさえいれば利益を得やすいという点では、世間というのは便利な仕組みです。しかしその仕組みには、どうしても見逃すことのできない暗部があるのです。

 先に述べた、村八分のような扱いのことです。

 ヨーロッパのような個人のしっかりした社会ならば、村八分くらい何も怖くはないですが、日本人には個人などというものはないですから、それは果てしない恐怖を呼び起こすものなのです。