「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十五、「物事、理屈やない」について

 先に述べたように、わたしたちは子供の頃よく親などの大人に、「理屈ばっかり言いなさんな」と叱責されたことがあります。

 そうか、自分の言うのは単なる理屈で、大人たちの言うのはちゃんとした論理なんやと、納得しようとするのですが、どうしても納得できませんでした。

 理屈と、ちゃんとした論理の違いはなんやろう?

 実は違いなんかないのです。

 世間では、とやかく何かについて論じることは、できればしてはいけないことなのです。それは子供だけではなく、大人も縛られているルールなのです。

 日本という国には、どこの社会でも、しっかりとした上下関係というものがあります。若い者が師匠と呼ばれる人に弟子入りしても、普通師匠は何も教えてはくれません。召使のような下働きをした挙句に、三年くらいたって、やっと稽古をつけてくれるのですが、その稽古かって、とやかく解説を加えてはくれません。

「とにかく覚えろ」それだけです。

 そこで出てくるのは、「理屈やないねん」という言葉です。

 物事理屈やないという言葉は、日本人にとって、ある種耳障りのいい言葉です。

 何事も、ちゃんと教えてもらって、理屈を頭の中に叩き込むと、芸などの上達は早くなると思いがちなのですが、日本人は、芸などだけではなく、会社員の仕事ですら、そのような「理屈やないねん」という空気を押し付けられます。

 そう。上っ面の芸は理屈でできるけれど、もっと深いところは、理屈では説明できない。「習うより慣れろ」という言葉がありますが、師匠に理屈を要求する暇があれば、一回でも多く練習しろということなのです。練習をたくさん積み重ねて、自分の力で「わかった!」というところまで行くのが、一番いい修行なのです。

 確かに落語家や高級料理人のような、かなりの才能を要する特殊な仕事の場合は、「理屈やないねん」という突き放した指導の仕方は役に立つでしょう。

 しかしある程度経験を積めば誰にでもできる、会社員の仕事にまでも、「理屈やないねん」という指導をするのはどうかと思います。

 ましてやまだ頭脳の定まっていない子供に対して、「理屈ばっかり言いなさんな」と叱責するのは、ひどいと思います。

 何度も言うように、わたしはヨーロッパなどに住んだことはもちろんありませんし、行ったことすらありません。そんなわたしが偉そうに言うことではないのですが、敢えてここで提言させていただきます。

 欧米人というのは、子供の頃から理屈をバシバシ言うのだと思います。個人というものがしっかりある文化で、「理屈ばっかり言いなさんな」と𠮟責することは決してないのだと思います。

 子供の理屈に対して、親も真面目に理屈を返すのだと思います。欧米人は子供も一個の個人としてみなしますから、理屈の応酬をするのは当たり前のことなのです。

 子供の頃からはっきりとした理屈でものを考える習慣がついているから、欧米にはたくさんの哲学や思想が花開くのです。

 日本人の世間では、最初から理屈は封じ込められていますから、独特の哲学や思想など、誕生するわけがありません。

 日本には禅という独特の思想があるやんかと反論されるでしょう。確かに禅の思想は、日本独特のもので、「理屈やない」という考え方を体現したものでしょう。

 しかし「理屈やない」思想というのは、習得するのがあまりにも難しいものです。ほんの一部の人しか習得できない文化が、本当の文化と言えるでしょうか?