「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十六、「理屈はいらん」ではすまない

 理屈というものが役に立つ時は、もちろんあります。たとえば会社などである程度の仕事をこなした後に、長期の休みが欲しい、あるいは育児休暇が欲しい、そのような権利を主張する時、ちゃんとした理屈を頭の中に持っていないと、交渉はできません。

 日本人は、権利の主張となると、とても苦手です。権利を主張すると、まわりから「あの人は権利ばっかり主張する、わがままな人や」という評価を受けることがあるからです。

 違います。権利を主張することは、正しいことなのです。権利=rightという英語は、正しいという意味もあるのです。

 しかしただ、権利があるとばかり声高に叫んでも、誰も権利は与えてくれません。周囲の人や経営陣たちを納得させるような理屈が必要なのです。

 そんな時に理屈を述べることができるようになるためには、既に子供の頃から理屈の勉強をしていなければなりません。

 世間にはいいところもありますが、弊害もあります。今その弊害の部分が多く出てきて、日本という国が、とても生きにくい場所になっているのです。

 その弊害を打破する一つの方策として、子供の発する理屈にもちゃんと耳を傾ける努力を、大人たちがしなければならないということです。

 そういうことをしてもらったと感じた子供は、大人になっても、ちゃんと自分の理屈を言える人間になります。

 現実の世の中を渡っていくのに、「理屈はいらん」ではすみません。何か一つ行動を起こすごとに、この行動にはこういう理屈があると、ある程度述べる能力が必要なのだと思います。

 ただ単に世間の中に安住して、わざわざ理屈を言わないでも生活費は順調に入ってくる、そういう生活に慣れ切ってしまうと、何か人生のピンチに立った時に、何の方策も取れない人間になってしまいます。

 ピンチに立った時に頼りになるのは、自分だけなのです。ただ単に世間の中で流されて生きていくだけでは、力はつきません。

 たとえば自分の子供が非行に走った時、登校拒否をしてしまった時とかに、そういうことに対処するためのガイドブックは、世間には売っていません。世間の中の偉いさんに相談に行っても、そんな事態そのものが世間体悪いやんかと責められるだけです。

 こういう時に大事なのは、自分にはっきりとした意見があるかということなのです。自分の意見を作り上げるためには、人間は絶えず勉強をしていなければなりません。上司のゴマをする技術の勉強ばかりしているわけにはいきません。息子や娘と、人間対人間の理屈の対決をするための勉強が必要なのです。

 だから子供や目下の者に向かって、「理屈ばっかり言いなさんな」と𠮟責ばかりすることは、そろそろやめないといけないのです。

 世間というところには、独特のルールがあります。それはその世間でしか通用しないルールで、別の世間に移動すれば、そこにはそこでまた別のルールがあります。

 口に出しては誰も言いませんが、世間の人は新しい人に対して、わが世間のルールを覚えて、それに従ってくれさえしたらそれでええんやと、要求してきます。そして大抵の人はそれに従います。

 そのルールに従わないといけない理屈などありません。反発して何か理屈を言うと、「まあまあ、そう言わんと」と宥められます。それでもまた理屈を言うと、「ええ加減にしろ」と睨まれます。

 ろくに理屈も言えない場所って、そんなの、ファシズムみたいな場所やん。