「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十七、給料貰えんとこに通って、どうすんねん

 わたしは自分のことを、てっきりおとなしい男だと思い込んでいました。二十歳くらいまでは、ろくに他人と会話すらできない体たらくでした。

 大学生というものは、あほなりに、色んな自分の意見を述べるものなのですが、そんな時もわたしはおとなしく黙ってばかりいました。

 友達は一人くらいはできましたが、女の子の友達などというのは、全く手の届かない存在でした。

 三十歳の時に大妄想を体験して、その時に自分の考えていることを、隅から隅まで自分に思い知らせたことは、後になって非常にプラスになりました。

 自分のやりたいことはやりたい、自分のやりたくないことはやらない、そういうことがはっきり決まっているだけで、毎日の生活をしていく上で、非常に秩序だった行動ができるものです。

 ましてやわたしは精神病院に入ってしまった人間ですから、普通の世間のレールからはすっかり外れ切ってしまったのです。ちゃんとレールに乗っている人たちの生き方を真似する必要なんか、さらさらないのです。

 大妄想が起こるまでは世間の目が気になったのですが、今はもう、そんなもの、すっかり気にしなくてもいい立場に立ちました。

 三十五歳の頃からクリニックのデイケアに通い始め、四十歳の頃になると、すっかりそこの主みたいなものになっていました。

 会社などのどこかに通って、そこが快適だと思ったことはありませんし、まさか主みたいなものになったこともありません。これは驚異的なことでした。

 確かにクリニックのデイケアなんかに通っても、一円の給料も貰えません。しかし人生、給料を貰うことだけが大事なのでしょうか?

 もちろん給料を貰わないと生活は成り立ちません。ましてや子供が何人もいたら、大事なのは仕事の内容やなくて給料やということになるでしょう。

 障がい者年金などを貰って、ご飯は親に食べさせてもらっている四十男が、何を偉そうなことを言ってるんやと、責められても仕方がありません。

 しかし働くというのは、単に給料を貰うためだけにあるのでしょうか? そんなん違うに決まってるやん。俺たちかって、それくらい分かるわと、会社に通っている人たちも口々に言うでしょう。

 しかしそんな人たちが一番誇りに思うのは、給料の額であることは確かなのです。肩書と給料の額、それが一番大事です。

 わたしはクリニックのデイケアに患者として通っているので、些少な肩書すらありません。もちろん給料もないのです。だけどわたしは、デイケアに通った十年ほどの年月の間に、とてつもなくたくさんのことを学びました。

 このブログの本題に戻れば、わたしは世間について多く学んだのです。

 精神科のクリニックのデイケアといっても、ただぼんやりした人たちがウロウロしているだけのところではありません。少し頓珍漢ながらも、はっきり物を言う人もいて、人間関係という点では、なかなか複雑なところでした。

 給料になる仕事をしていないからこそ、そこには人間関係しかなかったと言っても過言ではありません。

 人間にとって最も悩ましいのは人間関係であると、アドラー心理学などでは言われているみたいですが、まさしくその通りです。

 世間というところで最も大事なのは、人間関係なのです。人間関係を円満にしたいがために、世間には様々なルールがあるのです。そしてそれが時には弊害を生むことがあるのです。