「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

十八、人間関係の勉強

 わたしは元々会社にいても、特別人間関係に苦しんだことはありません。これはわたしにとっては幸せなことでした。人間関係の苦しみのために自殺したりする人が多い世の中ですから。

 わたしがとにかく気にしたのは、遅刻・欠勤の多さです。そのために会社の戦力に全くなっていないということが、いつも後ろめたかったのです。

 デイケアは、遅刻・欠勤について気にする必要がなかったのは幸いでした。

 来るのが遅い時には電話がかかってくることはありましたが、あほか、電話なんかかけてくるなという態度でもよかったのです。

 何しろデイケアはわたしにとって職場ではなかったのですから。どうしても定刻に間に合わないと片付けられない仕事が待っているわけでもありませんでした。

 そういう点で気楽でした。

 もしデイケアに仕事の要素があるとしたら、それは人間関係のことです。わたしはすっかりデイケアの人間関係の調整役になっていましたから、わたしが行かないと、その仕事をする人がいないだけのことなのです。

 それかって、どうしてもせなあかんことやなかったのです。だってわたしは別にデイケアから給料を貰ってるわけでもあれへんかったかつたのです。

 世間というところは、人間関係のるつぼです。日本人が何故世間というものをいつまでも大事にするかというと、それは、人間関係をとても大事にする民族だからなのだと思います。

 会社の仕事といっても、チャンスに回ってきたバッターがどうしてもヒットを打たなければならないような緊張感で常にやっているわけではありません。目の前にある仕事の大部分は、いつもやり慣れているルーティンワークなのです。

 そんなルーティンワークよりも本当に大事なのは、人間関係なのです。人間関係の中でも、人間の和というものを特に尊ぶのが日本人です。

 わたしがいた時のデイケアには、人間の和というものがしっかり存在していました。その点ではよかったのですが、やはりそこも一つの世間に過ぎません。

 世間特有の排他性は随分ありました。

 新しく入った人を値踏みして、この人はええ、この人はあかんと振り分けていたこと自体、世間によくある差別意識の現われでしょう。

 もっと多くの人を受け入れて、少々の混乱はあっても、平等なデイケアにしてもよかったのです。

 わたしはデイケアのヌシのようになっていましたから、できればいつまでもそのヌシの地位を守りたいという意識があったのは確かです。ヌシとして快適にいるために邪魔になる人を、放逐するような悪行にも手を染めてしまうこともあったのです。

 デイケアには十年ほど通いましたが、後半の五年くらいは、すっかり明るい人物になっていました。若い時の、あの陰鬱なわたしはなんやったろうかと回想するくらいです。

 わたしは元々しゃべるのが好きだったのです。それも同時にたくさんの人と仲良くできる特技があったのです。

 だから全員が集まってミーティングのようなことをする時でも、全く気後れすることなく意見を述べることができました。真面目な意見を述べるだけではなく、不真面目な駄洒落などを飛ばして、みんなをどっと笑わせたことくらい、無数にあります。

 みんなが一体になって、わたしの駄洒落を笑ってくれる。そういうのは、とてつもない幸せです。世間というところに居心地よくいるというのは、こんなにいいものかと、わたしはよくその幸せを嚙み締めたものです。