「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五、心が分裂したわたし

 ただわたしは朝起きるのが大の苦手で、ついにその苦手は六十三歳になる今でも克服されないままで来ました。

 しかしそのことは世間についての話と関係がないので、バッサリ割愛します。

 そのビニール製品加工会社にいる時も、例の宗教団体との関係は続いていました。わたしを本当に苦しめたのは、その宗教団体だったのです。

 その宗教団体の構成員の方々は、みんなわたしに対して親切で、優しい笑顔を向けて下さいました。就活ができず、その上留年までしてしまったわたしに対しても、何も非難がましいことは言いませんでした。

 そんな扱いを受けていたら、普通その宗教団体のことも好意を持つものなのでしょう。ところがわたしはどうしてもその宗教団体が好きになれませんでした。

 わたしの心はその時点で分裂してしまったのです。その宗教団体に属する人々のことは好きなのだけれど、その教えには全く納得するものがない。納得しないどころか、本当は、虫唾が走るほど嫌いだったのです。

 欧米の人たちのように、個人がしっかりある人たちならば、教えが嫌いな宗教団体なんか、何の遠慮もなくやめてしまうのでしょう。そこには何の迷いもないのでしょう。欧米人の知り合いすらいないわたしには、詳しいことは分かりませんが。

 わたしの家の近隣に住むその宗教団体の構成員の方々は、わたしにとっては重要な世間だったのです。その世間の教えが嫌いだからといって、その宗教団体から離れると宣言したとしても、それからのわたしはその世間の中に住み続けなければなりません。

 そうなった時にその宗教団体の構成員の方々とどこかで出会った時、極めて気まずい空気が流れることでしょう。

 世間の中では、気まずい空気というのはご法度なのです。なるべく気まずい空気が流れないために、同じ世間の中に住む者は、お互いに気を遣い合い、タテマエだけでも友好的であろうと心がけるものです。

 しかしその世間の中の大事な信仰というものを失った人に対して、世間の人はなるべく気を遣いたくないでしょう。わたしという人間はすっかり世間のソトに追い出されてしまうわけですから、無視されても至当なのです。

 生活している近隣の世間で無視をされるというのは、非常にきついものです。そうなってしまうと、ぜひともそこから抜け出すようにしなければならないのですが、経済的に自立していないわたしのような人間が、世間のソトで一人で暮らせるわけがありません。

 要するにそういう思い切ったことはできなかったので、わたしは中途半端ながら、宗教団体を嫌いだと宣言できなかったのです。

 しかし毎日のお勤めをするだけでも、嫌悪感がムクムクと湧き上がってきます。活動なんかに誘われたら、イライラして、誰でもいいからどつきたくなるくらいでした。

 当時のわたしは、声が小さいことにコンプレックスを抱いていましたので、お勤めで大きな声を出すことは、声を大きくする上で役に立つと、常に心に言い聞かせてやっていたのですが、やはりどうしてもむかついて仕方がありませんでした。

 いやなことをそのままいやだと素直に表明できないのが、世間というところです。しかし長年いやなことを我慢してやり続けて、いやな気持ちを克服できた、それが大人というものだと納得する人がいたとして、その人の心と内面の影響を受けたその人の見た目は、極めて歪んだものになっているに違いありません。

 長年生きてきて、わたしはそのような人をたくさん見てきました。そんな人は、克服して大人になったのではなくて、世間の風に屈服して、いやなことをいやだと言えない人間になってしまっただけなのです。