「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

四十二、わたしは世間に馴染みやすい人間だった

 何度もくどく書きますが、わたしはちゃんと会社勤めをして、傍らに小説を書くという生活でもよかったのです。その方が、小説によってお金を稼がなければならないというプレッシャーもなかったでしょう。何しろ会社から毎月給料を貰えるのですから。

 それにわたしの気質から見ても、決してサラリーマンに向いていないわけでもなかったのです。

 占いなどをして、自分がなかなか明るい性格だと知り、クリニックのデイケアの十年間で、人間関係を円滑に行う能力が、ずば抜けてあるということにも気づきました。

 そうです。ある程度あるというものではなかったのです。わたしには、今語っているような世間で活躍する能力が、かなりあったのです。

 両親がわたしにもっと自信を持たせるような教育をしてくれたなら、わたしは青年期からある程度の規模の会社に入ることができ、そこで結構過不足なく毎日の生活をこなすことができたはずなのです。

 そして充実した仕事の傍らに、趣味として小説を書く。収入はしっかりあるから、別に無理に小説で儲ける必要はない。だから、自由闊達、天衣無縫に、自分の世界を書き切ることができたはずなのです。

 わたしは別に、まともな仕事を軽蔑していたわけではなかったのです。わたしはサラリーマンになりたかった。是非、なりたかった。しかし若い頃のわたしは、完全に精神をやられていて、そういう真面目な生活ができなかっただけなのです。

 だから六十三歳になった今、わたしは、遅まきながらも、自分の円滑な人間関係の能力を生かして、一人でも多くの人に喜びを与えようとしているのです。

 とはいえ、今はほとんど家から出ない生活をしていて、何らかの世間にしっかり入っているわけでもありません。往診に来て下さる精神科医の先生や、ケースワーカーの人たち、ヘルパーさん、そういう人たちくらいしか、関係する人はいません。極めて狭い世間の中に縮こまって生きています。

 しかし小さい世間でも、それはわたしにとって大事な世間です。だからこれからはこのささやかな世間を大事にしていきたいと、願うようになりました。

 小さな世間でも、そこには人間がいます。数少ない人たちでも、会話の折りに楽しませたり、真面目な話をしたりして、絆を強くする練習をしていけば、きっとこれから役に立つということに、この頃やっと気づいたのです。

 こんな年寄りが言うのも何ですが、わたしには野心があります。小説で売れるという野心です。

 もし小説で仕事をするという立場に立ったら、そこには厳しい世間が立ちはだかっているに違いありません。出版社や編集者の方々、そして読者さんたちなどのことです。

 そうした厳しい世間を、楽しい世間にする能力を、身につけておかないといけません。

 そのように書くと、わたしは極めて世間というものを礼賛している立場だと思われるかも知れません。そうですね、礼賛ばかりしてはいられません。世間というものにはいい部分もあるけれど、悪い部分もある。その悪い部分を改良する、そういうこともしっかりと考えていかないといけません。

 わたしという人間は、元々世間というところに馴染みやすい人間だということが分かりました。しかし世の中には、世間というものに馴染みにくい人間というものが、たくさん存在します。

 わたしは結婚していますが、まさしくその結婚相手の妻が、世間というものに馴染みにくい人間の典型なのです。