「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

三十六、会社という世間の気楽さ

 わたしは、六十三歳になる今は、もうクリニックのデイケアには通ってはおりません。妻との生活に集中しております。わたしたち二人にとって世間とは、精神医療関係の人たちとの関係における世間くらいしかありません。

 仕事で来る人たちばかりなので、基本的にはわたしたちのわがままを聞いてくれて、わたしたちとしては、まずまず楽な関係を築いています。

 これはやはり世間と呼んでいいのでしょうか? 世間だとしても、極めて甘い世間だと思います。

 世間というもので一番厳しい世界は、会社のような働く場における世間でしょう。わたしたちはそういう厳しい世間を免除されて生きてきたので、ある意味気楽な身分だと言えないこともないのです。

 しかし二人とも病気の状態であって、それで二人平穏に生きていこうとする時に発揮する努力のエネルギーというものは、とてつもなく激しいものでもあるのです。

 ムジールという小説家が書いた『特性のない男』という大部の難しい小説があるのですが、そこに精神障がい者のことが出てきます。

 わたしの方はだいぶん症状がおさまっていて、苦しいと思うことも少なくなったのですが、妻はまだ幻聴と妄想に苦しめられていて、毎日二人で、綱渡りをしているかのようなヒヤヒヤの生活をしています。

 そういう際どい生活をして、喧嘩や話し合いなどを重ねて必死に二人で問題解決をしていると、昔、母親に家事全般をしてもらって、人の気持ちなど考えずにわがままに暮らして、会社などに出ていた頃のことが、とても気楽なもののように思えるのです。

 そうです。その小説には、そのようなことが書いてあったのです。みんなが仕事、仕事と、際どいところを頑張っていると言ったところで、精神障がい者が毎日闘う苦しみの中身に比べたら、その苦労はたいしたことはないよということなのです。

 会社って、わたしは長いこと一つの会社にへばりついていたことはないから、よくは知らないけれど、へばりつけるようになった人たちにとっては、結構気楽なものやないんかなあと、想像します。

 わたしの邪まな想像やから、単なる会社の悪口になってしまうかも知れませんから、あまりくどくは書きませんが、少しは書きます。

 会社になかなか馴染めない人には、会社というところは過酷な世間なのでしょうが、馴染むようになって、何も考えずにへばりついていられる人たちにとって、会社は逆に憩いの場なのではないでしょうか。

 わたしが若い頃働いていた時にいた、支店長という立場のある人は、一ヶ月に一日ほどしか家に帰っていないと言っていました。家には奥さんも子供さんたちもいるというのに、「なんか、帰りにくい」と言うのです。そして「会社で寝泊まりしてる方が気楽でいい」とも言っていました。

 そのようになったら、もはや会社というところは、その人にとっては、何の厳しいところでもなく、普通の人が家のソファの上に寝転がってテレビを観ている時のような、気楽な場となるのです。

 そこまでの気楽さは味わっていないにしても、会社が居心地がいいから、家なんか別に帰りたくないという人も多いような気がします。

 何度も言いますが、日本の会社というところは、立派な世間なんです。給料もほとんど不足なく貰えて、その上居心地がいいなんていうのは、最高の世間です。そして日本の会社という世間は、そのように感じるようになることを奨励しているのです。

 会社内での競争など、たいがいにして、なるべくみんな仲良く仕事をしていこう、それで売り上げが上がったら、一石二鳥やんか、そういうところなんです。