四十六、妻を迫害する世間
さっきも書いた通り、意地悪をしてくる人を避けるのは、普通の感覚でしょう。そのことをそのスタッフに言うと、女の子は、意地悪をするどころか、妻と仲良くしたいと言っているとスタッフは主張するのです。理不尽なことをしているのは妻の方だと、責めてくるのです。
それでも事実その女の子は意地悪をしてくるのだと訴えると、そのスタッフは不意に涙ぐんで、「誰々さんは、こんなにあなたのこと好きやのに、なんで分かってあげへんのん?」とすすり上げるのです。
わたしも妻も思わず笑い出しそうになりました。
好きって、好きやったら、意地悪せんかったらええのに、意地悪ばっかりしてくるやんか。このスタッフ、向こうの言い分ばっかり聞いて、こっちの言いたいことは否定してくる。全然不公平やんか。なんや、こいつ、話にならんわと、ぼくも妻も何にも言わずにいると、そのスタッフはついに怒り出して、「もう、いいわ。あんたらには何も言わん」と吐き捨てるように言うので、わたしたちはスタッフルームから出て行ったのです。
世間というところには、成否をはっきりさせる機関はありません。きっちりと何かを決めるという場所ではないのです。
事の正否を決めるのは、世間の中に流れている空気というものなのです。空気がこちらに不利に動いていたら、間違っているのはこっちということになるのです。その空気に対して抵抗しても仕方がないのです。
その女の子が正しくて、妻が間違っているという空気になっているのならば、まあええやんと、わたしと妻は心に決めました。そして結局二人ともデイケアを去ることに決めたのです。
わたしは妻が世間の空気に負けるところを、はっきりと目撃しました。そして妻はずっと昔から、世間の空気に負けてつらい思いをすることが多かったようなのです。
妻は明るくてとても優しい人なのですが、強くはない人なのです。世間というところは、強い人のことは重んじるけれど、強くない人には味方をしてくれないものなのです。
たとえ明るくて優しいという美点があっても、そんなもの、何の役にも立ちません。逆に、何をしても怒らないからということで、どんどんいじめてくるのです。
わたしはデイケアという世間に普通に馴染んでいました。わたしはデイケアでは強い人間だという評判を取っていたようです。
リーダーシップを取って、デイケアのために、ささやかながら色々な仕事をしていました。デイケアの秩序作りには大きく寄与したつもりです。
しかしわたしの大事な妻を迫害するようなデイケアは、わたしにとって必要ありません。デイケアのメンバーの全てを束にしても、妻に比べたら、百万分の一くらいの価値しかありません。
妻を悪者にするのなら、わたしも悪者になります。そしてデイケアという世間から、あっさりと姿を消すことにしたのです。
二人だけでは世間を構成することができないと、世間学の本に書いてありましたが、デイケアを辞めた当座、わたしと妻とは強力な絆で結び付けられた世間そのものだったのです。わたしたち二人のつながりを邪魔する者がいたら、かなりひどい罵倒の言葉を投げつけたものです。
わたしと結婚するまでの妻は、色んなトラブルに巻き込まれていて、にっちもさっちも行かない状況だったのです。呑気に仕事をしているデイケアのスタッフたちのしている間の抜けた働きよりも、かなり厳しい働きをしなければならない状況にあったのです。