「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

三、世間の排他性

 そうなるともはや就活どころの騒ぎではありません。わたしは実質上大きく転落してしまったのです。

 私学とはいえ有名大学に入るということは、実際に入ってみて分かったのですが、ことのほか晴れがましいものです。

 わたしの感覚としては、国語、社会、英語という得意科目しか受験科目になかったものですから、現役で通らなくても、一浪くらいすれば通るだろうと予測していて、実際に一浪で合格したのです。

 わたしにすればさほどびっくりすることではありませんでした。

 わたしは父と母と妹のいるその実家に、九歳の頃から住んでいたので、ご近所さんたちがそばに住んでいることに、何の違和感も感じていませんでした。親しくする人はほとんどいませんでしたが、そのあたりを歩いたりする時には、何の気後れもなかったのです。

 家の近所のそのあたりというのは、わたしが初めて馴染んだ世間だったのです。

 当時のわたしにとって大事な世間だったところで、わたしは有名大学に入った秀才として認められたのです。

 内心は不安だらけでした。大学を出るまでに何とか一人前の人間になっていなければ、世間様に申し訳が立たなかったのですが、そうなる自信は皆無に等しかったのです。

 そのご近所の世間の中核を占めていたのが、例の宗教団体だったのです。何故なら両親がその宗教団体の信者だったので、二世であるわたしも自動的に信者として遇されるようになってしまったのです。

 わたし自身はその宗教団体のことがどうしても好きになれませんでした。しかし近所に住む信者さんたちは、みんないい人ばかりだったのです。それでわたしの頭はすっかり混乱してしまったのです。

 有名大学に入ったわたしをこんなに称賛してくれて、どこから見てもいい人たちしかいないこの宗教団体が、悪いところであるはずがないと、わたしは思うようになりました。そして次第に内部に入り込むことになったのです。

 当時は世間というもののことを全く知らなかったし、こういう現象こそが世間の特徴だとも、夢にも知らなかったのです。

 世間は、世間のウチにいる人には極めて親切なのですが、世間のソトにいる人間たちには、冷淡だということです。

 その宗教団体は、他宗教の批判という点ではとても有名なところでした。

 集まりなどで事あるごとに他宗教の批判というより非難の言葉を聞くたびに、わたしは、あれ、おかしいなあと首をひねりました。

 他宗教の批判の応酬によって、過去何百年の間、世界中の人々は散々殺し合いをしてきた歴史があることは、誰でも知っていることではないか。今の時代でこんなに他宗教の批判をするこの宗教団体は、明らかに時代錯誤な存在ではないかと。

 しかし日本の宗教団体が世間の一つだということを知った今、他宗教の批判をこれだけしている意味がやっと分かりました。

 先にも書いた通り、世間のウチとソトとでは、雲泥の差があるということなのです。

 ウチではみんな極めて友好的で親切なのですが、いったんソトの人に対する場合、ソトの人というのは、もはや人間ですらないということなのです。だからいくら傍若無人な非難を投げつけても構わないのです。

 わたしも日本人であるのだから、日本の世間に住む者です。しかしこの世間の極端な排他性というのは、昔から今に至るまで、わたしに激しい嫌悪感を催させるものでした。

 そして世間から秀才と見なされていた位置から転落したわたしに対して、世間は途端に冷たい風を吹きつけ始めたのです。