「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十六、世間にもいいところはある

 わたしはさほど多くの欧米人に会ったわけではありませんが、大学まで行った関係上、何人かの外国人の授業を受けたりしました。

 大学を出ても英会話を全く習得できなかった程度の頭脳ですから、彼らのしゃべっていることは、ずっとチンプンカンプンでした。

 しかし時々唖然とするような振る舞いを、彼らはするのです。

 教壇の上で欧米人の先生が不意に一人で陽気になって、さらに楽しそうに英語をしゃべり散らすのです。そしてその様子を見ていると、今すぐにでも踊り出しそうなくらいはしゃいでいるのです。

 わたしは留学どころか、二、三日の海外旅行すら行ったことはないので、詳しいことは分かりませんが、やはり欧米人は日本人とは根本的に違っているようなのです。

 日本人だって、自分の頭でものを考えて生きているつもりですから、ちゃんとした個人があると考えています。しかし欧米人の持っている個人というものは、日本人が持っている個人とは、全く桁違いのものではないか。

 阿部謹也さんが書いていらしていましたが、日本人が何人かでレストランに入った時、まず何を食べようかという相談に入ります。そして一人がラーメンと決めたとしたら、他の人たちも、まあ、ラーメンにしようかと合わせるというのが常道です。

 ところが欧米人は、そういう際、全く自分勝手に事を進めるそうです。一人だけフルコースの料理を頼んだり、もう一人は家から持って来た、パンに魚のフライをはさんだものに齧りついたり、何も食べずに本を読んだり。

 みんながみんな違うことをしていても、誰も変には思わないらしいのです。そしてちゃんとコミュニケーションは取れているのです。

 日本人がいくら自分たちもちゃんとした個人だと威張ってみたところで、やはり集団に埋没する傾向が強いのは否めません。

 むしろ集団の中に埋没することによって、安心感を得ているようなのです。

 日本人の個人がそのように弱いものであり、世間に埋没するのが好きならば、それはそれでいいと思うのです。そういう性質が全面的に悪いとは言えないでしょう。

 何しろそのように集団に合わせる能力があれば、協力して事に当たることができるのですから、団結力が優れていると言えるのです。何かのことで業績をあげようとしたら、集団の団結力が不可欠なことも多いでしょう。

 それはそれでいいことなのに、どうも日本人は自分たちのその能力に自信を持てない。すぐにキョロキョロと外国の様子を盗み見て、あのように個人主義でやった方がいいのではないかと思ってしまう。

 それで学校では個性重視の教育をしたり、職場でも、個人の意見をもっと出しなさいと発破をかけたりする。

 日本という国にちゃんとした社会があるなら話は別ですが、残念ながら日本には希薄な社会しかないのです。

 だから頼りにできるのは、世間だけしかないのですが、その世間というところでは、個性的であったり、自分の意見をバンバン言うことは、百害あって一利なしなのです。

 何を決めるにも、取り敢えずみんなで協力して決める。それでいいじゃないですか。それは世界的に見たらみっともない決め方だから、欧米人のようにしようなどと考え始めたのが、そもそもの間違いなのです。

 日本は個人と社会という概念を輸入して、近代化したから、これだけの経済発展を遂げたのだと主張する人が大多数でしょう。しかし阿部謹也さんのご意見では、日本の高度経済成長を陰でしっかり支えたのは、日本特有の世間であったそうなのです。個人や社会などというのは、タテマエとしてあるだけのものに過ぎなかったのです。