「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十五、社会には法がしっかりしている

 そのように世間を外から見ると、悪いところばかり際立つような気がしますが、一度中で馴染んでしまうと、世間ほど居心地のいいものはないのです。

 クリニックのデイケアのようなところが世間だなんて言ったら、ちゃんちゃらおかしいと笑われるかも知れませんが、十年もの年月そこに通っていると、そこには確かに世間というものがありました。

 わたしはそこでリーダー的地位に就いていたのですから、それは確かです。何にもないところでリーダーも何もないでしょう。

 単なる病人の集まりだからといっても、やはり人間が集まるのですから、そこにはそこ独特の空気というものがあります。なごやかにしゃべっているようでいて、お互いに牽制し合うという、無言の闘争もあります。そしてある種の融和に達するのです。

 ある程度苦労して辿り着いた融和なのですから、それを乱すような人が新たに現われたら、みんなでその人を排除するという動きになるのは、致し方がないのです。

 それが外から見れば排他性ということになるのです。

 排他性があるからこそ団結できる。しかし排他性も一種の差別になるから、あまりひどいやり方はよした方がいい。

 人権思想から言えば、よした方がいいでしょう。クリニックのデイケアごときのものなら、誰が入って来ても、快く仲間に入れてあげるのが普通でしょう。

 欧米の社会ならば、誰でも受け入れるべきだとはっきり断言できるのでしょう。そこではしっかりした法があります。世間のような曖昧な空気ではなく、しっかりと紙に書かれてある法というものがあるのです。その法を破れば、その人は冷酷に放逐されるのです。

世間というところには明確な法はないのです。一応クリニックのデイケアのスタッフが決めたルールというものはあるでしょうが、そういうものを少なくともわたしは、一度も目にしたことはありません。

世の中ってだいたいこうやから、ここでもこうやろうというような、曖昧なルールでずっと継続しているのが、世間というものです。

日本にも法というものがありますが、わたしたち国民にはどうも身近なものではないようです。だから、よほどの凶悪事件でもない限り、裁判が始まっても、結局示談で終わってしまうことが多いのです。

法というものがさほど強く機能しない国だから、日本には社会の存在が希薄だというのです。

日本という国は島国で、単一民族しかいない前提になっていますから、大きく言えば、日本全体が一つの世間になっていて、わざわざ法のしっかりした社会を形成する必要がなかったのです。

しかし欧米の国々は全て、様々な民族が住むところです。違った言語も飛び交います。そんなところでで、曖昧な空気などだけで、融和が図れるはずがないのです。

民族や言語が違うと、ものの考え方も違ってきます。Aということが絶対に正しいと確信している人たちと、それが絶対に間違っていると確信する人たちとが、同じ地域に住んでいることはざらにあるのです。そんな対立に対して、日本の世間式に、「まあまあ」と言って仲に入り、妥協点を見つけようなどという生易しいやり方は通用しません。

だからこそ法がしっかりしていて、様々なことが法によって裁定されるのです。法がなければ秩序を保てないのです。そういうギリギリの緊張関係で成立しているのが、社会というところなのです。

欧米の国々は社会を作らざるを得なかった。しかし日本はそれほど強烈な法は必要としない国なのです。