「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十四、たった一年年長であるだけで

 日本には世間というものが厳として存在し、欧米型の社会というものは希薄にしか存在しません。だから今ここで世間というものを絶滅させたら、日本人の繋がりというものは、全てなくなってしまいます。

 だから世間というものはそのまま残して、それを改良していかないといけないと前に書きました。

 世間というものの一番悪いところは、内部における差別的なところと、外部に対する極端な排他性です。

 これらの要素は、なくなりはしないですが、ある程度緩和する必要があります。

 世間の改良という問題ですが、今まで世間学の著作を何冊も読みましたが、どのように改良したらいいのか、はっきりとした手立てが書かれたものはなかったように思います。

 わたしごときがどのように改良したらいいのか、ここで述べるのはおこがましいですし、大体わたしにもその手立てを考えることはできません。

 世間というものは、あの無謀な戦争を起こすほどの力のあるものですから、わたし一人がとやかく言っても仕方がないし、変なことを言ったらわたしそのものが跡形もなく潰される可能性があります。世間というものはそのように恐ろしいものでもあるのです。

 しかし再びあの無謀な戦争の張本人にならないためにも、世間というものを改良しなければならないことは確かです。

 少なくとも、個人個人の尊厳というものは、はっきりと保持するようにならないといけません。世間の中では世間の方が大事であって、個人など何の価値もない。そんな性質をいつまでも持っていたら、日本という国はいつまでも生きにくい国であることは、やめないでしょう。

 前にも書きましたが、たった一年年長であるがために年少の者に対して理不尽な命令をする、そのような洒落にならない慣習を、まずやめないといけません。

 五年も十年も上ならば、少しくらい高圧的になっても仕方がありません。あくまでも少しくらいなのです。誰の目から見ても明らかにパワハラと分かるような圧力は、かけてはいけません。

 年齢に上下があろうが、役職に上下があろうが、同じ組織に所属する成員は、あくまでも平等なのです。その平等さを強調する世の中にならないと、同じ年どうしでも上下関係ができてしまい、いずれそれがいじめという形になってしまうのです。

 とにかくわたしは、学校のクラブ活動に入ってひどく落胆した思い出がありますから、せこい上下関係なんかは大事にしない方がいいという立場に立っています。

 これでもわたしは半年以上バスケットボールの練習をしたのですよ。それなのに今、わたしは、テレビでバスケットボールの試合を見ると、言い知れぬ不快感を感じます。

 神聖であるはずのスポーツなのに、おぞましいイメージを人の心に残すのです。

 たった一年年長であるがために、年少の者に対して絶対的権力を奮うというのは、おぞましいとしか言いようがありません。そのことを聞いた外国人が笑いこけるのも無理がありません。

 年が近かったら友達でいいじゃないですか。そして他の年の離れた成員たちとも、基本的には同輩の仲間なのです。ある程度の上下関係がなければ、秩序は保たれないですが、それはある程度に留めておくべきなのです。それでないとどんな組織にもあるいじめやパワハラの問題はなくならないと思います。

 滅私奉公の軍隊的な奉仕精神は、もはや必要がないのです。もし必要であると言う人がいたら、あなた自身が一番末端にまで落ちて、ひどいいじめでも受けてみればいいのです。