「世間学」を勉強中です。

日本の世間について語ります

五十九、世間では『行間を読む』ことが大事

 集団の成員の和は最も大事なので、世間というものができたと言えるのです。成員の数はそれほど大勢とは言えないにしても、和がなければ、協力して生活ができません。

 大昔のように、インフラがほとんど整っていない時代には、人々は協力し合わないと生きていけなかったのです。

 和がまず第一だったので、そんな世の中に個人などというものが発達する要素はないのです。その集団の中に生まれついたら、すぐにでも集団の和の中に入る訓練をする。それが世間で生きる上で最も大事な教育だったのです。

 阿部謹也さんは、西洋にはキリスト教の告解というものがあり、自分の内面を司祭に吐露しなければならないという、ある意味過酷な習慣ができたから、個人というものが発生したと言っておられます。

 もちろん日本にはそんな習慣は全くありませんでした。だから個人というものも発達せず、個人の集合体である社会というものも、未だに希薄なものとしてしか存在しません。

 西洋では、十二世紀頃からだんだんと世間というものがなくなっていったのですが、日本ではかなり力強く脈々と生き続けていて、今でも日本という国は、世間の集合体として存在していると断言しても、過言ではないと思われます。

 日本独自の『わび・さび』という文化も、世間という空間があってこそ生じたものなのです。

 文章を読む時に、『行間を読む』という言葉が使われます。日本語以外にも行間を読むという行為をする言語もあるでしょうが、日本語においては、時に、実際に書いてあることよりも、書いていないことの方が大事だという、摩訶不思議な読解の仕方があります。

 文章だけではなく、実際の会話でも、口から出た言葉が大事なのではなく、その時の手の仕草や表情の微妙な動きとか、微かな目くばせとか、そして二人の間にある空気というもの、そのような言葉以外の情報の方が大事だということがよくあります。

 日本の教育は、明治以来、欧米流の『はっきりとものを言う』ということが第一になってしまって、世間風の『行間を読む』類いのコミュニケーションについては、ほとんど言及されなくなりました。

 しかし現実の日本人の間では、『はっきりとものを言う』という習慣よりも、『行間を読む』という曖昧なものの方が、支配的なのです。

 その辺のところを、政府の上の人たちやインテリ層の人たちは、分かっていてわざとしよとしないのかも知れませんが、表立って問題にすることはありません。

 もし問題にすることがあったとしても、悪い意味でしか問題にしません。

 安倍首相在任当時によくマスコミで騒がれた『忖度』という言葉がそうです。

 安倍首相は何も命令したわけでもないとしても、官僚の方が、「こうしないと、安倍首相のご不興を買うのではないか」と考えて、何らかの不正をしたという問題がありました。

 不正は不正と言うくらいですから、悪いことです。不正の部分はきっちりと正さないといけません。

 それなのにマスコミの騒ぎっぷりを見ていますと、法律違反の不正そのものよりも、安倍首相に対する『忖度』を責める風潮の方が強かったと思います。

 たとえ『忖度』があったにしても、そんなものを現実的に証明することは不可能なのです。いくら安倍首相に罪を認めさせようとしても、「そんなことはなかった」と言われれば、それ以上詰め寄る方法はないではありませんか。

『忖度』など、どんな組織にでもあるものだと、わたしは考えます。あれだけの大きなお金が不正に動いたのですから、悪い『忖度』でしょう。悪いものは一掃しなければならないものです。しかしそう簡単に事は運ぶものでしょうか?